Ultima Online歴史
(注釈)
このページの記録は、2002年の4月にそれまでの UO の歴史を振り返り、その変化や過程を UO の多くのプレイヤーに知ってもらいたいと思い書いたものです。
当時、大きな変革を予定していたパブリッシュ16の発表があり、その変化の是非について BBS などで大きな論争が起こっていました。
しかし、そういった論争の中で UO が変化した「理由」を知らないままに主張・反論されている意見が多いのが気になり、それがこの歴史を書くきっかけとなりました。
これを書いた 2002年の4月はちょうど UO:LBR が発売された頃であり、日本で成功している MMORPG はほぼ UO のみ、若干クロスゲートが普及していて、RO はβテストの初期、FF XI は最終βテストの頃でした。

(2002年4月記)
今回の日記から、この場を借りて「UOの歴史」を書いてみたいと思います。

パブリッシュ16での、ゲームシステムに大きな変革をもたらしそうな変更案が提案されて以来、各所の UO BBS ではUOのルール・システムの変更について様々な議論が行われています。
そしてその中で、昔のUOはこうだったとか、元々UOはああだったとか、かつてのUOを取り上げる投稿も多くなっています。
その中には、変化していくUOのシステムについて否定的な意見も多く含まれていますが、ではなぜUOはこのように変わっていったのでしょうか?
かつてのUOと今のUOがどのように違うのか、そしてその変化の間に何があったのか、それをここで書いてみようと思います。

UOは 1997年10月 に公式にスタートしました。
すでに4年半以上も続いている訳です。
かつて1つのゲームの運営が続編という形以外でここまで続いた事はなく、長い間に世界が変化して行くのは、現実がそうであるように、仮想世界でも自然な事と言えます。
しかしその変化の中には、時間の流れによる必然のものもあれば、改革によってもたらされたもの、そして副作用的なものも含まれます。

では、次の言葉の後、しばらくの間UOの歴史を書いてみたいと思います。

「何かが変わるとき、そこには理由がある」


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=Ultima Online の歴史 : 第一節=

1997年 6月〜10月 「βテスト時代」

UOは1997年10月にスタートしましたが、実際にはその数ヶ月前からβテストが行われており、それ以前にはオリジン社内においてαテストも行われていました。
このα・βテストの頃の詳細はすでに伝説と化していて、私もよく解りません。
しかしまだテスト段階であったため、魔法が必殺の攻撃力を持っていたり、ガードがうまく機能していなくて街中でPKが横行していたりなど、まだシステム的に未完成だったようです。
しかし、1つの世界で数百人もの人がプレイする世界初の大規模多人数型オンラインロールプレイングゲーム(Massive Maltiplay Online RPG : MMORPG)に、多くのプレイヤーが期待を持っていました。
その世界が RPG の原点の1つ「Ultima」であった事も、期待感の一つだった様です。

有名な事件と言えば、「ロードブリティッシュ殺害事件」でしょうか。
当時、Ultima の原作者の リチャードギャリオット氏 がロードブリティッシュを操り、またその友人でデザイナーの スターロン氏 がロードブラックソーンを操って、自らゲーム内で様々なテストを行っていました。
そんなある日、ロードブリティッシュがプレイヤーの前で演説中、あるプレイヤーがファイアーフィールドを投げかけロードブリティッシュが群集の前で死亡!
騒然となる群集の前に話を聞いたブラックソーンが駆けつけ、「こんな事した奴はだれだー!」とデーモンを召還! ますます場が騒然となったという事件です。
これもβテストならではですね。

そしてβテストサーバーは、ロードブリティッシュの演説と終末のイベントの後に終了し、公式スタートへと繋がっていく事になります。

当時の話は 「T.Yach's ウルティマオンラインページ」 や、NICOLE さんのサイト、「GL旅の手帳」 などで少し知る事が出来ましたが、NICOLE さんのサイトと GL旅の手帳 さんはすでに閉鎖されています。
現在は、
UONN の「アーカイブ保全プログラム」により、その一部が保存され、それを見る事が出来ます。(UONN のフレーム下部「各種データ」の下の方にあります)

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日本のプレイヤーのコミュニティーは、その中心は前述した「T.Yach's ウルティマオンラインページ」だったようです。
そしてこのサイトでプレイヤーの中心としてすでに活動されていたのが、「Ultima Online の部屋」の Kenji さん、「うるうる」の Teria さんだったそうです。


1997年 10月 〜 1998年 3月 「旧UO時代・黎明期」

UOは1997年10月(アメリカでは 9月末)に一般発売が開始され、公式にスタートしました。
日本では当初、サーバー負荷を考慮したのか発売本数が限定されていたため、その発売日には秋葉原などで長い行列が出来たりしたそうです。

この発売から翌年3月までの期間を、ここでは「黎明期」としたいと思います。
(あくまで、ここでは、です。一般的にこう分けられている訳ではありません)

βテストの末に発売された Ultima Online ですが、まだ発売当初はシステム的にも完成されておらず、相変らず魔法は必殺の攻撃力を持ち、ライトニングで即死PKとか、ファイアーボール2発ですぐ死亡とか、ゲームバランスも取れていなかったようです。
ガードの機能も相変らず不安定で、街中でPKできたり、逆に郊外でいきなりガード死したりすることもあったそうです。
当初はバンクにはお金しか預ける事が出来ず、家はすでにありましたが、プレイヤーベンダーはまだ未導入で、プレイヤーのギルドもありませんでした。
また、当時はコンピューターのハードウェアやインターネット環境自体が今より未発達であった事もあり、ラグやコネロスは当たり前、ブリティンの西から東まで移動するのに30分、という事もざらにあったそうです。
初の MMORPG という事で、発売後にも多くの問題が発生していたようです。

しかしそんな混沌とした中でも、「何百・何千もの人が同じ世界でプレイするRPG」として、UOは大きな注目を集めていました。

度重なる修正パッチにより、ラグは徐々に減っていき、銀行の機能が改善され、プレイヤーベンダーやギルドの導入が行われ、魔法の威力の低下などバランス調整も行われ、UOは徐々に本来デザインされていた形に近づいて行きます。
そんな中、1998年に入ってからUOに大きな事件が発生します。
「Dupe(デュープ。アイテム複製)の横行」です。

UOよりも先んじて発売されていた世界初の本格的インターネットゲーム「Diablo(ディアブロ)」、それは爆発的ヒットとなりましたが、様々な改造ツールが出回る事によってアイテムやキャラクターの改造・複製(Dupe・チート)が行われ、1998年当時、すでにそのゲームシステムは崩壊していました。
それと同じ事が UO でも起ころうとしており、多額のコピーされたお金によってブリタニアの平原には一気にタワーなどの大きな建物が乱立していきます。
これに対し 1998年 2月、ついにオリジンは Dupe に関わったと思われるアカウント、そして Dupe アイテムを警告後も保持していたアカウントを一斉に削除しました。
その時に削除されたアカウントは 300 を越えており、まだ今よりも人口の少なかった UO にとってそれは非常に大きな事件でした。
その後、UOはデータ改ざん(チート)やアイテムの複製に対し、即時アカウント削除の厳罰をもって対処されるようになり、それによりUOは再び安定していきます。

こうして 1998年の3月頃、UOはほぼ予定されていた仕様に落ちつきます。
UOも発売当初、その安定を見るまでに半年の時間を必要とした事になりますね。

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日本のプレイヤーコミュニティーもこの間に変化していったようです。
当初日本プレイヤーの中心地であった
「T.Yach's ウルティマオンラインページ」は 1997年の 12月頃に更新を停止、かわりに情報ページとして 「AOAO」 がスタート、Kenji さんや Teria さんもここを中心にUOの各種翻訳情報などを提供されていたそうです。
しかしその 「AOAO」 も1998年の3月頃に更新が止まり、その後 Kenji さんや Teria さんは
「Ultima Online の部屋」 「うるうる」 といったご自身のサイトでの情報の公開をメインとされ、UO情報の中心地はさらに移動していく事になったようです。

当時、UOにはまともな説明書がついておらず、公式サイトのオンラインマニュアルは全文英語、日本公式ページなんてものも存在しなかったため、各プレイヤーはこれらの情報サイトを元に、自分でプレイ方法やルールを学ぶ必要がありました。
今よりも「UOサイト」の必要性は高く、これらプレイヤー側のコミュニティーが存在していなければ、日本のUOは今の様に運営されていなかった事でしょう。

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という訳で、続きは次回・・・


=Ultima Online の歴史 : 第二節=

1998年 3月〜10月 「旧UO時代」

1997年9月末にスタートし、1998年3月頃に ほぼシステムの完成した Ultima Online。
それからしばらくは安定した時代に入ります。
ここではその 3月 から T2A が発売され日本サーバーがオープンする 10月 までの約半年間を、「旧UO時代」としたいと思います。
一般に 「古い時代のUO」 「海外シャード時代」 とは、この頃を指します。
私が UO をプレイし始めたのもこの時期になります。

この時代もさらに 1998年6月に導入された「(新)評判システム」によって前期と後期に分かれますが、まずはこの時代の UO がどんなものだったかを説明しましょう。

現在 Trammel と Felucca の2つに分かれている世界ですが、当時は現在の Felucca ルールをベースとした1つの世界のみでした。
つまり、常に PK やシーフに狙われる危険があった訳です。
さらに最初の頃は PK へのステータスロスも存在せず、PK 行為に対するペナルティーはほとんどありませんでした。
そのため襲った襲われたの殺伐とした世界であり、一般のプレイヤーはダンジョンなどでは、襲われても対応出来るよう常に周囲の状況に気を配っておく必要がありました。
しかし必然的に PK に対抗する PKK の活動も活発化し、有名な PK や PKK の活躍がプレイヤーの語り草となっていました。

スキルやステータスの上昇は今より遥かに遅く、バーストタイムと言うものもなかったため、スキルやステータスは日々のプレイによって長い時間をかけゆっくりと上げていくものでした。
ゲートや蘇生の魔法を使う人はかなりの上級プレイヤーであり、一目置かれる存在で、生産系スキルの上昇はさらに遅く、鍛冶などは何日も修行してやっと 0.1 上がるかどうかというものでした。
だから街を GM 鍛冶屋が歩いていれば、それはみんなから尊敬される存在だったのです。

モンスターから得られるお金は今より少な目で、スキル上昇が遅く多くのプレイヤーがそれほど強力ではなかったため、狩りで得られる収入は今よりずっと少ないもので、だいたい1時間で1000G程度が普通でした。
そのためお金を稼ぐなら生産スキルの方が効率がよく、それは資金源として重要なものでした。
アイテムの販売価格などUOの基本的な経済バランスは今でも当時のものがベースとなっています。 よって、それが今のインフレの一因になっていると言えるかもしれません。

バードやテイマーは今ほど強力な存在ではありませんでした。
なぜなら、バードは煽動した事のあるモンスターが他のプレイヤーを攻撃すると犯罪者になってしまうという非常にリスクの高いスキルで、テイマーはドラゴンがまともに扱える代物ではなかったからです。
また、これらのスキルは今でも上昇させるのが大変ですが、さらに今より数倍スキルの上がりにくい当時の事ですから・・・ その修行は困難を極めました。
これらは当時、ほとんど趣味のスキルだったと言えます。
しかしその分、ドラゴンを連れた人が街を歩いていれば、それは驚きと羨望の眼差しで見られていたものですが・・・

ただ、当時は装備の影響を受ける「瞑想」のスキルがなく、知性評価のスキルが魔法攻撃に影響するというような事もなかったため、戦闘キャラと言えば「魔法戦士」が定番であり、その分 今よりも戦闘キャラクターのバラエティーさは少なかったと言えます。

他にも多くの違いがありましたが、後のUOと異なっている事、その変化によって後に大きな影響を与える事になった項目は、これらのものです。

この頃の様子は、定番となっている ROBIN さんのマンガ「Britannia の勇者達」また Nada さんのサイト「Y.G.C 公式 HomePage」のマンガ「漫画 UO Journal」などで(楽しく)知る事が出来るでしょう。

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1998年3月からしばらくの間、細かいバグ修正以外 UO に大きな変化はなく、今の様に頻繁なパッチ導入や公式サイトからの発表もありませんでした。
しかし、そのUOにも徐々に問題が出てきます。

PK 行為に対する実質的なペナルティーがなかったため、どんどん PK が増え続け、一般のプレイヤーや新しいプレイヤーが入れないほどの状況になっていったのです。

元々UOには、「プレイヤー自身が物語を作る」、「善がプレイヤーであるなら、悪もプレイヤーであるのが望ましい」 というのが基本デザインとして存在していました。
しかし、UOにはすでに「殺伐としたゲーム」という風評が立っており、あまりに増えすぎた PK によってブリティン周辺の街道は「PK街道」と呼ばれ、初心者がゲームをしようにもルールも分からないうちに殺され続け、またハラスメントに近い行為を繰り返す悪のプレイヤーも増加し、増え続けていたUO人口もついに停滞し始めてしまいます。
この状況にあたって、ついにオリジンは 1998年6月、新しい評判システムと、そして PK への「ステータスロス」を導入する事になります。

「新しい評判システム」とは、犯罪を犯すと灰色ネームになり、殺人カウントが5になったら赤ネームになって死ぬとスキルとステータスを失うという、つまり現在の評判システムです。
それ以前はただカルマの上下のみで名前の色が決まっていて、赤ネームのペナルティーもそのキャラで街に入れないだけでした。

もちろんこの導入は多くの PK プレイヤーからの反感を受けます。
それはかつてないほど大規模な、プレイヤーのオリジンへの反発でしたが、オリジンは新評判システムとステータスロスの導入を強行します。
それだけ当時のUOにおいて、過密した PK が大きく問題視されていたと言えます。
(* 現在、ステータスロスは 2003年の UO:AoS によって廃止されています。 ただし PK が活動できるのは当時とは異なり、Felucca のみです)

しかしこのステータスロスの導入は新たな問題を生みます。 FPK(青PK)です。
新評判システムの「犯罪フラグ」のルールを悪用し、相手を犯罪者にしてから PK する事によって、ステータスロスという厳しいペナルティーを受けずに他人を殺すプレイヤーです。
BS や FF に突っ込むなど相手を犯罪者にする方法は色々ありましたが、ペットを利用したものや、魔法のバグを利用したものなど、だんだん手が込んでくるようになります。
そのたびにオリジンはそのバグや抜け道を修正し、BS や FF にも変更を加えたりしますが、PK の方も人間、また新しいあの手この手を考え出します。
こうして、FPK を修正するオリジンと、また新しい抜け道を見つける FPK の いたちごっこが繰り返されます。

そんな中、1998年の9月末、ついに日本サーバーが始動し、そして 10月に T2A が発売され、UO は新たな時代を迎える事になります・・・

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日本のコミュニティーは、Kenji さんの「Ultima Online の部屋」Teria さんの「うるうる」NICOLE さんの「NICOLE'S Home Page」が UO の御三家として運営されており、UOの各種情報の中心地となります。
この頃、日本の UO 人口はさらに増え続けていましたが、相変らず UO にはまともな説明書はついてなく、オリジンからの公式発表も全て英文だったため、英文の翻訳を掲載し、プレイに必要な情報も提供されているこれらのサイトなくしては、日本のUOプレイはままならないと言っても過言ではありませんでした。
当時の公式発表の翻訳文は、
うるうるのフレーム下部「旧アップデートセンター」や「公式サイト翻訳」などに残されています。
他にも 「GL 旅の手帳」 や 「ひさのページ」など複数の情報ページが存在し、それらを回って必要な情報を自分で調べるのが当時のUOプレイヤーのスタイルでもありました。
また、UOの総合掲示板として
「UOボード」と呼ばれるBBSが運営されており、ここがチェック必須の情報交換の中心となっていました。

ちなみに、ブリ観は日本シャードが出来る少し前 1998年9月にオープンしましたが、まだ当時はただの観光案内ページでした。

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と言う訳で、また続きは次回・・・


=Ultima Online の歴史 : 第三節=

1998年 10月〜 2000年3月 「T2A 時代」

1998年10月、UO最初の大規模拡張「The 2nd Age(T2A)」が発売され、新たに LostLand という土地が加わります。
そして日本にとっては 「日本サーバー」 と 「日本語のサポート」 いう待望の追加が行われ、UO は大きな変革を迎える事になります。
一般に、この頃から UO:R 導入までの期間を「T2A 時代」と呼びます。

この頃は、旧UO時代が安定期と言えるのに対し、まさに変化の時代であったと言えます。
家のシステムの変更(オーナー制度、ロックダウン・セキュアの導入)、スキルマネジメントの導入、ハウスアドオンの追加、ルーンブック・ポーション樽の導入、トレジャーハント・SOSサルベージの導入・・・
様々な新仕様がかつてないほど次々と加わり、UOは大きく変わっていきました。

これには、オリジン社内でのリードデザイナーの交代も関係していた様です。
旧来のUOデザイナーは「Desiner Dragon」という方で、通称「DD」と呼ばれていました。
彼は古い時代のUOのバランスを保持しようとしていた、言わば保守的な人でした。
一方、「Sun Sword」という方が新たにデザイナーとなり、彼はユーザーから提案のあった仕様をどんどん導入していこうとしていた、言わば改革派でした。
しばらくは両者がデザインを担当していましたが、何があったのか解りませんが、DD は突如 UO チームから引退し、オリジンを退社してしまいます。
その後、リードデザイナーとなった Sun Sword 氏によってスキルマネジメントやハウスアドオンが導入され、UOは動的な時代を迎える事になり、新しい追加に加え、古くからある不具合もどんどん修正されていきました。

(* Sun Sword 氏はその後、UO:R 後にUOのスタッフから引退しますが、2002年末に再びUOのデザイナーに復帰しています)

しかし度重なる修正は、開発側も予測していなかった様々な副作用も生み出します。

例えば、旧来のUOでは強力なモンスターでも少量のお金しか持っていなかったりしました。
それがモンスターの強さに応じて、強力な敵は多くのお金とアイテムを持つように修正されます。
それはゲームとしては正しくなったと言えますが、上級プレイヤーの収入の増加に繋がり、後のインフレの一因となります。

また、昔はスキルを使っていればスキルの上昇に無関係でステータスが変化していたため、ステータスのバランスが崩れやすく、下がったステータスを元に戻す「ステータス調整」と呼ばれる作業を行っていました。
それを是正するため、スキルが上昇した時のみステータスが上がるように修正されます。
しかしそれが「スキルマネジメント」と組み合わさり、ステータスを簡単に上げられる「スキルシーソー」という方法も生んでしまいます。

また、バードが扇動すると犯罪者になる不具合、テイマーのドラゴンのコントロール調整とサーバー境界線を通過すると弱体化する不具合も修正されますが、それはバードとテイマーの予想以上の強化を呼びます。
モンスターを地形にひっかけてそれを弓やBSで攻撃するのが攻略法になっていましたが、それが出来ないようモンスターの AI が強化され、モンスターが地形を迂回する様になりました。
しかしそれによってモンスターが移動する際の処理が増え、モンスターの反応が大幅に遅くなり、逆に全体の難易度の低下を招く事になったりもしていました。

もちろん、副作用のない不具合修正の方が多く、多くのバグ修正によって、UOはさらに遊びやすくなっていきます。
瞑想の導入や知性評価の改良、DEXの攻撃スピードへの関与などによって、魔法戦士が定番だった旧UOに比べ、様々なタイプのキャラクターが登場するようにもなります。
しかし、かつての UO の更新ペースと比べると、急激とも言えるこれら多くの変化によって、若干の新たな問題が出てくるのは避けられず、それが他の状況と重なったりして、徐々に予測の出来ないゲームバランスの変化に繋がっていきました。


また、この時代はさらに多くの問題を大きな抱える事になります。
その問題は大別すると、旧来のUOから続く問題と、時間の経過によって必然的に生じた問題の2つに分けられます。

旧来のUOから続く問題には、FPK(青PK)問題、寝マクロ問題などがありました。

PKへのステータスロスの副産物として出現し始めた「青PK」は依然問題となっており、オリジンはそれを少しでも減らそうと青PKの手段となるシステムの穴をパッチによって埋めていきますが、PK も様々な抜け道・アイデアを持って 青PK を繰り返します。
さらに、ステータスロスを嫌いリスクを減らして PK を行おうと、初心者ばかりを狙う「初心者PK」、赤ネームをサポートする青ネームと混合した「赤青混成PK」も現れ始め、「PK側にもリスクを」と考えていたオリジンの思惑はうまく機能しないままとなります。
ゴースト状態でキャラを放置し殺人カウントを減らす PK に対して「長期・短期・ピンポン」の殺人カウンターが導入され、ゲーム的に大きな問題となっていた 初心者PK を防ぐために Young システムが導入されますが、そういったプレイヤーとオリジンの「いたちごっこ」はなおも際限なく続いていきました。

「寝マクロ」とは、外部のソフトを使ってスキルの上がる行動を自動処理で繰り返させ、なかなか上がらないスキルを寝ている間に自動で上げさせる行為で、旧時代のUOの頃からずっと問題となっていました。
元々UOのスキルは長い時間をかけないと上がらないものだったため、少しでも早くスキルを上げたいと思う多くのプレイヤーが寝マクロを行いましたが、オリジンもUO以外の外部ソフトの使用を一切禁止し、同じ行為を繰り返すプレイヤーを強制的に Jail に放りこむなどして、特に T2A 以降から強い取締りを行うようになります。
しかしそれでもマクロを行う人は絶えず、それは GM の作業を増やす結果となり、それはプレイヤーのオリジンへの反感も生み、勘違いで処罰される人も出て来てしまいます。

これら昔からある問題の他に、2年近くに渡って運営されてきた事による時間によって生じた問題も出始めます。

まず、人口増加に伴う土地不足。
ブリタニアの家を建てられる土地はどんどん減っていき、家が建てられないプレイヤーが増え、不公平だと文句を言う人が出始めます。
さらに長期間の運営により強力なプレイヤーが増えたため、全体的な収入が増加、ゲーム内で貯めこまれたお金の総量も徐々に増えていき、必然的にお金の価値が下がり、インフレが発生し始めます。
これら現実社会のような土地・経済問題がブリタニアに訪れ始めます。

こういった様々な問題の解決のため、オリジンは1999年後期、大規模な改革を計画します。
それは当初「6ヶ月計画」と呼ばれており、それが後の大きな変化へと繋がっていく事になります・・・

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日本のUO環境も、T2Aとほぼ同時にスタートした「日本サーバー」の登場により、大きく変わりました。

当然のようにプレイヤーの大半は日本サーバーへと移住、日本語のサポートも加わり日本人の GM も登場、UO というゲームの敷居は一気に下がり、日本のプレイヤーはこの時期から急に増加しはじめます。
それにあわせて Wakoku、Hokuto、Izumo と次々新しい日本シャードがオープンします。
英語で話す人もいなくなり、もう日本シャードにおけるUOは、完全な「日本のゲーム」へと変わっていきました。
また、GM によるイベントが盛んになったのもこの頃で、季節イベントや「皇帝 Golmor」などの大規模なものまで、各種イベントが展開されていきます。
が、実はこの GM イベントがこんなに盛んだったのは、日本シャードだけでした。
この点に関して、日本の運営サイドが海外よりも活動的で、優れていたと言えます。

UOの情報サイトの中心となっていたのは、Kenji さんの「Ultima Online の部屋」、Teria さんの「うるうる」、NICOLE さんの「NICOLE'S Home Page」、「GL旅の手帳」さん などで、これは依然変わっていませんでしたが、うるうる はパッチ情報の翻訳が止まり、データサイトとしての運営に変わっていきます。
ブリ観はこの頃からパッチ情報などの翻訳を始め、観光案内以外のコーナーを追加し、個人ページから後発の情報ページに変わって行きました。
また、プレイヤーの情報交換の中心となる BBS サイトは依然
「UOボード」がメインでしたが、日本シャード Asuka のオープンに合わせ、Nanaka さんの「Asuka BBS」が登場、その後、各シャード別 BBS が新しい情報交換の場として重要なものになっていきます。

EASによる(旧)日本公式UOサイトもオープンし、T2A 以降から日本語によるまともな説明の書いた説明書も付属されるようになり、UO自体も低価格で売られる様になります。
(それ以前は1万円ぐらいしていました)
これらは日本サーバー登場以前には全く考えられなかった事であり、海外シャードの頃の雰囲気がなくなる一方で、UOが身近なものに変わったのを実感できました。

しかしまだこの頃は Felucca ルールが基本であったため、様々な変更が導入されたにせよ、PK や PKK が各所で活動した旧時代のUOと、ゲームの全体的な感じは大きく違ってはいませんでした。

ある意味、「過渡期」とも言えるこの当時は、刺激の多い時代であったとも言えるかもしれません。

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と言う感じで、続きはまた次回。


=Ultima Online の歴史 : 第四節=

2000年3月 〜 2001年3月 「UO:R 時代」

2000年3月に導入された UO の大規模パッチ「UO:Renaissance(ルネッサンス)」から、UO:TD が発売されるまでの1年間を、ここでは「UO:R 時代」と呼びます。

T2A 時代に特に表面化し始めた諸問題の解決のためオリジンが企画した長期計画「6ヶ月計画」、それは実際には9ヶ月以上に渡る長い準備・開発の末に UO に導入されました。
そしてそれは、「UOルネッサンス(UO:R)」と呼称されます。
「ルネッサンス」とは文化の復興・変革を意味する言葉で、その名の通り、この UO:R によって UO はそれまでと大きく変わる事になります。

それを、ある人は「近代UOの始まり」と言い、ある人は「諸悪の根源」と言います。
それほどまで、UO:R はプラスとマイナスを含む UO における劇的で激的な変化でした。

まず、UO:R の本パッチに先だって「スキルバースト」が導入されます。
これは1日あたり1時間、スキルの上昇が通常よりもかなり早くなるというものでした。
このスキルバーストが導入された背景には、旧UO時代から続く「寝マクロ問題」がありました。
外部のソフトを使ってスキルの上がる動作を自動処理で繰り返させ、プレイヤーが寝ている間や不在の間に何時間もスキルを上げ続けさせる「寝マクロ(不在マクロ)」、オリジンはそれを取り締まろうと様々な手を尽くしますが、それは一向に減らない上に、取締りを受けたプレイヤーとGMサイドの確執を生む事にもなります。
スキルバーストは、1時間の間スキルアップを早くし、その寝マクロの有用性を減らすと共に、寝マクロに頼らなくても自分のプレイによってスキルを上げられるようにと導入されました。

しかし、通常よりも飛躍的にスキルの上がるスキルバーストによって、多くのプレイヤーが非常に高いスキルを持つようになります。
生産スキル GM のキャラクターは当たり前の存在となり、街には GM 鍛冶屋が溢れ、複数の生産スキルを GM にしたキャラも普通に存在するようになり、GM スキルを持った生産者が人々に尊敬されていた時代は終わりを迎えます。
戦闘キャラの育成ペースも非常に早くになり、スキルが高い事、GM である事の意味は大きく変わってくる事になりました。

そして、2000年3月、大規模な変更パッチ UO:R が導入されます。
戦闘の修正やパーティーシステムの導入など様々な変更がありましたが、最も大きなものは、他人に危害を加える事が禁止された世界「 Trammel 」の追加でした。
まったくルールの異なる新しい平行世界の出現、それは大きなバランスの変化を UO にもたらす事になります。

Trammel が追加された背景には、昔から続いてきた「PKの諸問題」が存在しました。
システムの穴をついてリスクのない PK を行う FPK(青PK)、初心者ばかりを狙う初心者 PK、詐欺やハラスメント的な行為を繰り返す悪のプレイヤーの存在、そして昔から続く PK 論争。
FPK や 詐欺、初心者 PK を防ごうとあらゆる手を尽くそうとするオリジンと、新たな手段を模索する PK側 の間で繰り返された長期間に渡る「イタチごっこ」の末、オリジンが取った問題解決のための最後の手段・・・ それが 「 Trammel 」 だった訳です。
「もしあなたが旧来のスリルと自由のある世界を望むなら Felucca に残ってください。 そうでないならば Trammel に渡ってください。 選択権はプレイヤーにあります」、という訳です。

(もう1つ、当時 UO のライバルとして大きな人気となっていたネットゲーム Ever Quest が PK のないシステムで好評を得ていたため、その影響もあったかもしれません。アメリカでも UO には「殺伐とした悪逆なゲーム」という風評がありました)

しかし Trammel の導入は、また新しい問題を生む事になります。
まず最も大きな問題となったのが、「バード・テイマーのゲームバランスを崩す強化」です。

この2つの職業が強いのは T2A の頃から問題になり始めていました。
特にテイマーは War でも強すぎると言われていたため、オリジンも様々な修正を導入しようとし、その度にバランス取りに失敗したり、弱くしすぎてテイマーからの一斉反発を買ったりしていました。
しかしこれは T2A の頃はまだそれほど大きな問題にはなっていませんでした。
なぜならこれらの職業には PK に特に弱いという弱点があり、狩り場で常に PK に襲われる危険のあった当時、それが抑止力となっていたからです。
しかし Trammel の導入でその世界では PK がなくなった事により、バードとテイマーの弱点はなくなり、モンスター戦に極端に強いこれらの職業は他の職業を圧倒するほどの強さを持つようになります。
さらにバーストタイムの導入によって、これらのスキルの修行も以前よりラクになります。
加えて、T2A の初期に登場したレアな騎乗動物「ナイトメア」が長い時間の末に一般へ普及していった事もあって、ドラゴンテイマーは異常に強い存在となりました。

また、Trammel では他のプレイヤーの移動を妨害しない様に、モンスターや他のプレイヤーを無条件ですり抜けられる様になります。
しかしそれはさらに UO の難易度の低下を生み、またバーストタイムによって多くのプレイヤーのキャラクタースキルが向上した事もあって、従来のゲームバランスは大きく変化します。
かつて強力だったモンスターが簡単に狩られるようになり、それにより狩りで得られる収入が激増、それでなくてもインフレ傾向にあったブリタニアにさらなるインフレを呼び込みます。
Trammel によって狩り場が事実上2倍に増えたため、それも影響があったようです。

そして Trammel の誕生によって必然的に生じる問題、Felucca の過疎化。
たとえスリルがあっても、実質的な利益に乏しく、常に襲われ、殺され、奪われる危険のある世界に誰も居たいとは思いません。
人口の流出は止まらず、Felucca にはどんどん人がいなくなり、それは 6月の Trammel 建築解禁によって決定的となります。
人がいなくなった事によって PK の数も減り、PK が減った事により PKK もいなくなります。
かつて有名な PK や PKK の活動がプレイヤー達の語り草となっていた時代も、ここに終わりを迎えます。

オリジンは Trammel の出現によって Felucca の過疎化が起こる事は予測していました。
そのため、当初は T/F は行き来できない完全分割化を考えていた様です。
しかしそれはもちろん、コミュニティーの分断など数々の問題が予測されるため出来ませんでした。

そこで、モンスターから稀に入手できるムーンストーンを使ってのみ行き来出来るようにされたのですが、結局そのアイテムさえあれば移動可能なため、それはただ移動がめんどくさくなっただけであり、人口流出を止める要因にはなりませんでした。

もう1つの人口流出の抑止策が「対人戦(戦闘)の改良」と「派閥戦争の導入」でしたが、派閥戦争は開発が遅れ、すでに Trammel の家建築解禁が終わった 9月の導入となってしまい、それはすでに多くの人が Trammel に移住した後であったため、人々を Felucca に引きつけるものにはなりませんでした。
そしてそもそも、「対人戦」に全てのプレイヤーが興味を持っている訳ではないため、対人戦の改良や派閥戦争の導入は元々あまり有効な対策とは言えませんでした。

マーフィーの法則ではありませんが、「問題の解決は、新たな問題を生む」の言葉そのままだったのが UO:R であったと言ってもいいかもしれません。


しかし、UO:R によってもたらされたのは、もちろんマイナス面だけではありません。
多くのプラス面も同時にもたらされました。

スキルバーストによって、多くの人が様々なスキルや生産を楽しめる様になりました。
また、当然「寝マクロ」は大幅に減少します。
そして、Trammel の誕生によって常に他人を警戒する必要はなくなり、気軽に行商が出来るようになり、狩り場でも安心して他の人と話し、協力する事ができる様にもなりました。
かつての UO は人を気軽に信じられるような雰囲気はなく、もっと殺伐としていました。
現在のような和気藹々とした雰囲気は、この UO:R によってもたらされたものなのです。

また、Haven が登場し、完全に最初の世界(Trammel)から PK や シーフ がいなくなった事によって、初心者が無為に襲われる事もなくなり、初心者でもラクにゲームに慣れる事ができるようになりました。
そして、「殺伐としたゲーム」という風評も薄れ、それを嫌っていた多くのプレイヤーが UO を始め、また人に勧めるきっかけとなったのも UO:R のもたらした大きな利点でしょう。
もちろん、世界が増えた事により建築可能な土地も増え、家の数も従来の2倍になりました。
UO はこの UO:R によって、一気に遊びやすく、プレイしやすいゲームへと変わったのです。


さて、あなたはこの UO:R について、どのような印象を受けたでしょうか?
それは正解だったと思いますか? 失敗だったと思いますか?
その答えは人それぞれでしょう。 それが 「UO:R」 であるとも言えます。

ただ、一つ大事な事があります。
それは、この大きな変更が多くの問題を抱えた末、その必要性に迫られて導入されたものであると言う事です。
UO:R がなければ、寝マクロが依然続き、安心して人と話せる雰囲気はなく、FPK や 初心者PK の問題が今なお続いていた事でしょう。

得たものと失ったもの・・・
それは UO に大きな変化を与え、近代の UO へと繋がって行く事になります。

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日本の UO コミュニティーは、UO:R の少し前に新しい大手情報ページが登場しました。
HYATT さんの 「HYATT の記憶野」 です。
UOの各種最新ニュースを最速で伝える情報サイトとして日本プレイヤーの情報源の中心となります。
さらに、日本公式サイトが大幅リニューアルされ、現在の形の日本公式サイトとなりました。
それまでは製品情報などがメインのサイトで、情報の公開も遅く、BBS などもなく、かなり地味なものだったのです。

一方、それまで長年にわたって情報交換の中心となっていたBBS「UOボード」が移転と同時に衰退し始め、代わりに情報交換の中心は各情報サイトにある BBS と、各シャード別 BBS に移っていきます。
また、取り引きの中心は Kenji さんの
「Ultima Online の部屋」がこの頃から最大手となって行き、うるうる も BBS が中心のサイトに変わっていくなど、中心となる UO サイトは依然変わっていませんでしたが、それぞれの位置付けのようなものは徐々に変化していきました。

また、日本では UO:R の発売と同時に全国のコンビニで 2980円 と言う、とても安い価格で通称「コンビニUO」が売られるようになり、この発売によってさらに爆発的に人口が増える事になります。
しかし同時に、世界で最も土地不足が深刻な地域にもなっていきました。

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と言う訳で、次回は「UOの歴史」最終回となります。


=Ultima Online の歴史 : 第五節=

2001年3月 〜 2002年2月 「UO:TD 時代」

2001年3月に発売された UO の 3D 表示クライアント「Ultima Online : Third Dawn(UO:TD)」から、2002年2月に発売された強化 2D クライアント「Ultima Online : Lord Blackthorn's Revenge(UO:LBR)」が発売されるまでの約1年を、ここでは「UO:TD の時代」としたいと思います。

UO:TD は UO の全てのキャラクターを 3D ポリゴンで表示すると言う、これまでと見た目の全く異なる非常にインパクトのあるものでしたが、それはグラフィックの変化であり、ゲーム自体には大きな変更はありませんでした。
また、3D グラフィックの表示/動作には高いパソコン性能が要求され、旧来の 2D 表示も従来通り残されていたため、多くのプレイヤーが速度と安定性に優れる昔からの 2D の方を好み、結局それほど 3D クライアントは普及しませんでした。
パソコンの性能は UO が登場した4年前と比べて大きく進歩していましたが、それが普及レベルになったかというと、実はそうでもなかった、という所でしょうか。
3D クライアントでしか行く事が出来ない「イルシェナー」という新しい世界も登場しましたが、上記理由で 3D クライアントがあまり活用されなかったため、訪れる人も少ないままでした。

元々 UO:TD で 3D ポリゴンが採用されたのは、見た目の変化もさる事ながら、ネットゲームとしての「拡張性」を重視したというのが大きな理由でした。
2D のグラフィックを追加するには非常にサイズの大きいパッチをあてなければならず、しかも旧来の UO クライアントは 2D グラフィックを簡単にパッチで追加できる仕組みにはなっていなかったのですが、3D ポリゴンなら数値処理の追加のみで新しいモンスターやその動きを追加する事も可能だからです。

しかし、4年以上と言う長い期間に渡り運営され続けてきた世界規模のネットゲームである UO は新旧・千差万別の様々なパソコンでプレイされていたため、新しい技術・ハードウェアが必要とされる新仕様の導入には無理があったのかもしれません・・・


UO:TD の時代には、UO のゲームシステムに大きな変化はありませんでした。
UO:R による変更の影響がそのまま続き、さらにテイマーが強くなり、インフレが加速し、土地不足と Felucca の過疎化も進みますが、それは UO:R の頃から継続されている問題であり、新しい変化と言う訳ではありません。
この時代の変化は、UO の中ではなく UO の外(リアルでの変化)、そしてシステムの変更・追加ではなく UO におけるイベントの変化が大きかったと言えます。

まず、UO の運営面に関する大きな変化がありました。
これはアメリカと日本で全く異なるものでしたが、アメリカの方から言うと、やや話が前後しますが UO:R 導入後の 2000年5月、「リチャード・ギャリオット氏」のオリジン退社から大きな変化が始まりました。
R・ギャリオット氏は Ultima シリーズの原作者であり、UO の創始者であり、オリジン社の発起人でもある人で、通称「ロード・ブリティッシュ」と呼ばれている方です。
そして、コンピューターゲーム界における「RPG」というジャンルの創始者の1人でもあります。

UO はオリジンが開発したものですが、後に大企業である「Electronic Arts(EA)」社と提携、販売は EA が行う事になります。
その後、オリジンは EA に買収され、事実上 EA の傘下企業となりました。
そのオリジンは UO の運営を行うと同時に、新しい 3D ネットゲームを開発していました。
当初「UO2」として開発されていた「Ultima World Online : Origin(UWOO)」です。
しかし、同じネットゲームと言う事で UO と内容がダブるうえ、開発はなかなか進みません。
またネットゲームの運営には当初 EA が予想していた以上の 費用/労力 が必要とされ、毎月徴収されるアカウント料によって大きな利益を上げてはいましたが、その運営費用もだんだんバカにならないものとなっていきます。
そこで親会社の EA は大規模な経営の合理化を計画・・・ その結果、オリジンのロードブリティッシュこと R・ギャリオット氏と、ブラックソーンことスターロン氏が退社する事となります。
表向きの理由は、UWOO に莫大な開発費用がかかった事による責任、でした。

そして UO:TD 発売とほぼ同時に UO2 こと「UWOO」は開発中止、その開発に携わっていた多くのクリエイターも同時に解雇され、その多くは後に R・ギャリオット氏が設立した新しい会社に集まります。
そしてまだ UO の運営メンバーとして活動していた多くのスタッフも、彼を慕ってオリジンを退社していきました。
結果、一時は 200 名以上のスタッフを抱えていたUOチームは、現在はその4分の1ほどになっていると言い、さらにコンパニオンやカウンセラーなどのボランティアも廃止されます。
これらは直接的ではありませんが、間接的に UO の運営に関係してきています。
それにより、確かに UO の経営状態は合理的になったのかもしれませんが・・・
そこには、ゲーム業界の複雑さ、そしてネットゲームと言うジャンルの運営の難しさが現れていると言えるかもしれません。

その一方、日本の UO の運営状態はアメリカとは正反対にさらに拡大、活発化していきます。
日本公式サイトはますます充実していき、ユーザーとスタッフサイドの交流の元になった「日本公式BBS」が誕生、Sage Sundi 氏などプレイヤーに身近なUOスタッフも登場します。
カウンセラーやコンパニオンなどのボランティアもさらに増え、公式検索システム「eSearch」が登場し、そして IRC で UOスタッフと日本のプレイヤーがチャットで直接話せる「UOJC」もスタートしました。
それまで日本のユーザーとスタッフの間には隔たりがあったのですが、これらによってプレイするユーザー側と運営側の距離が急に縮まったのがこの時期です。
プレイ人口も増加の一途で、新たに Mizuho シャードもオープンしました。
ちょっと変わった所では、音声で UO の最新ニュースを伝える BNN ラジオステーションもスタートしています。


そして UO のゲームの中では、「GM イベント」が大きなポイントになっていきました。
日本シャードでは T2A 後の日本サポート導入以後、恒例の季節イベントを始め、大小様々な GM イベントが実施されて来ました。
しかしそれは日本の特徴であり、海外ではあまり GM イベントは展開されていませんでした。
その「イベント」が、システムとして急にピックアップされ始めたのがこの時期です。
まず、2・3月に「UOイベントナイト」と呼ばれた、実施スケジュールが予め公表された全シャード実施の大規模な GM イベントがありました。
これはその後のイベント展開のための実験的な試みだったようで、日本でかつて行われたイベントのデータも参考にされたようです。
そしてそのイベントでのプレイヤーからのフィードバック(意見・提案)も集められ、それらを元に計画された全シャード規模のストーリー付き大型イベントが、現在も展開中の「シナリオ型イベント(EWE)」です。
これは、そのイベントのためにパッチがあてられ、ストーリーが用意され、新モンスターや新アイテムまでもが登場すると言う、これまでにない新しいものでした。
TD 発売後の5月にスタートしたこの「シナリオ」は現在すでに数度実施されており、そのたびに新しい仕様も導入されています。
UO:TD の時代は、まさにシステムイベントの導入の時代と言ってもいいかもしれません。

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そして日本のコミュニティーは、さらに変化をしていきます。
UO:R の少し前から最速情報サイトとして定番ページとなっていた HYATT さんの「HYATT の記憶野」が、UO:TD 発売の後に突如閉鎖してしまいます。
それとほぼ入れ替えの形でスタートしたのが鮎渡さんの
「ウルティマオンライン パラリシャン」で、実際にはその前から運営されていたのですが、最速情報サイトとしての運営に変わったのがちょうどこの時期になります。
その後、「パラリシャン」は UO 情報の中心となり、また
「UO Info」 という海外からの情報を中心とした新しいサイトもオープンし、これらが定番ページとなっていきました。

しかし、「UO Info」はこの年の年末、早くも閉鎖されてしまいます。
さらに古くから運営されていた情報サイト「GL旅の手帳」さんも終了し、そして 11月、UO 創始の頃から定番の情報サイトして運営され続けてきた NICOLE さんの「NICOLE's Home Page」が終了する事になってしまいます。
また公式サイトでも年末、UOプレイヤーのスタッフサイドの窓口として活動されていた Sage Sundi 氏が突如引退されてしまいます。

UO:TD の時代は、新しいサイトや人が登場すると共に、それまで定番だったサイトや人が去っていった時代でもありました・・・
色々な意味で、ゲームの外での変化が多かった時代と言えます。

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そして、2002年2月末、新しい UO クライアント 「UO:LBR」 が発売されました。
時代は 「LBR の時代」へと移ってゆきます。

今後の UO はどのような歴史を辿って行くのでしょうか?
オリジンと EA はアメリカのマンガ家「トッド・マクファーレン」をデザイナーとして迎え、シナリオを中心としたストーリー重視の展開をメインにしようとしているようです。
その一方、テイマーやバードの問題、Felucca の過疎化の問題に対し、大規模なシステムの変更・追加でその対策をしようとしています。
これらの変更が UO にどのような形のどの程度の影響を及ぼすのか・・・
それはまた将来に、過去を振り返らないと解らない事でしょう。

日本のコミュニティーも、公式BBSはリニューアルされその運営方針が変わろうとしており、情報ページも定番の「パラリシャン」の他、「らま@ねっと」など新しいものが登場しています。
もちろん
「Ultima Online の部屋」「うるうる」も変わらず運営されていますが、他にも豆知識やデータの豊富な 「うぇるまじ」 「MOON GATE」家と内装に特化した「UOカフェテリア」ど、固有の情報に特化した定番サイトも増えつつありますね。
そしてそれらを統括して紹介している
「UONN」も UO:R の頃から変わらず運営されています。
このサイトではあまり取り上げていませんが、対人系のサイトも定番の
「OZ」の他に「しかドットこむ」など新しいサイトが出てきています。

ただ、今の日本のコミュニティーはシャード別 BBS のサイトも含め、ほぼその形が固まっているので、新規のサイトが登場しにくい状況になっているかもしれません・・・
日本のコミュニティーとしての大きな変化が今後あるのかどうか?
今年からやっと日本製の他のネットゲームも活発に動こうとしています。
公式側・ユーザー側共に、日本固有の動きがあるのかどうか、注目かもしれませんね。

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初期の UO は、今とは全く違う システム・バランス・遊び方 を持っていました。
PK や シーフに警戒しつつ、森の動物を狩り、得た僅かな肉と皮を店に持って行き、小額の小銭を得て、それで少しの武器や防具を買い、日々の修行で数ポイントずつ地道にスキルやステータスを上げ、果てしない先にあるマスタークラスの冒険者や生産者を目指していました。
時が経ち、その雰囲気はなくなりましたが、それが悪いと言う訳ではありません。
ルールを解りやすく学ぶ事ができ、様々なスキル・ステータスのキャラクターを使って、みんなで気軽に協力し合える世界で、プレイしやすい環境の下でゲームを楽しむ事が出来るようになりました。

UO の数々の変更によって多くの人が新たにブリタニアの住人となって行きましたが、その一方、変更が元でブリタニアから去って行った人も確かに存在します。
しかし、旧来から UO に導入されてきた変更の多くは導入すべき理由を持っており、またその多くはプレイヤーが望んだものでもありました。
昔の方が良いと言う人もいるかもしれません。 しかし、実際に昔と全く変わらぬ UO が存在したとしても、そちらに移る人はほとんどいないでしょう。

UO は確実に進化を遂げています。
それはオリジンとプレイヤーが共に望んできた変化であり、万人が満足する世界とは言えないかもしれませんが、大多数の人が満足できる世界に確実に近づいているはずです。
だからこそ、開始からこれだけ長い年月が経った今でも、多くのプレイヤーがブリタニアで生活しているのでしょう。

ただ、UO という長期運営のネットゲームに今更ながら問題を言うとすれば・・・
「プレイヤーに有利な変更は容易に導入出来るが、その逆はとても難しい」 という事でしょうか。
そのツケが、今の UO に貯まっている気は、少ししています・・・

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4年の間に、皆さんも、皆さんの近所の様子も、大きく変わったと思います。
ブリタニアはゲームとは言え、人々が生活している仮想世界。
その間に変化がないとすれば、それは逆に不自然な事でしょう。
おそらくまた1年経ったら、今とは全然違う様子になっているのでしょうね。
あ〜、私もアレから4歳年とったんだなー・・・

では最後に、ネットゲームについて、それに携わったアメリカのクリエイター達が行ったディスカッションの紹介をしたいと思います。

http://www.zdnet.co.jp/news/0203/26/e_gdc1.htmlZD.Net より)

この中でコメントしている人のうち、Ralph Koster 氏 は、かつて初期の UO のデザイナーとして活躍した「Desiner Dragon」、通称 DD 氏の事です。

この中には多くのネットゲーム運営における基本が書かれていますが、こんな一文もあります。
「コミュニティの構築が早く進めば進むほどユーザー基盤を早期に固めることができる。
 これらのユーザーに、これは自分たちのゲームだという感覚を持ってもらうのだ」

ネットゲームにおいてプレイヤーコミュニティーの存在は非常に重要なものです。
初期のUOにおいて、取っ付き辛かったこのゲームの紹介をされていた UO サイトがもし存在しなかったら・・・ 日本でUOがプレイされていた事はなかったかもしれません。
そしてプレイヤーのコミュニティーが良い状態で存在するには、そのゲームをプレイするプレイヤー達が高いレベルである事も必要になると思います。
ネットゲームは従来のゲームに比べ特殊なもので、歴史もまだ浅いです。
そこには通常のゲームにはない様々な事柄があり、それを知識として知っているプレイヤーが多いほど、それはそのネットゲームにとってプラスとなるはずです。

今、日本ではやっとネットゲームが始動しようとしています。
しかしまだ始動前ですから、ネットゲームについての知識を持っている人はごく僅かです。
今 UO をプレイし楽しんでいる人は、その「ネットゲームの知識」というスキルを持つ、僅かな人の1人です。
これから FF XI を始め多くのネットゲームが家庭用ゲームを始めとしたパソコン以外の世界にも進出していくでしょう。
その中で、今これを読んでいる皆さんの存在は重要なものとなる・・・ はずです。


今後もUOはもちろんの事、他のネットゲームについても、今後多くの問題が出て来るかもしれません。
しかしその中で、それについての知識や情報がないまま討論する事は、その討論自体があさっての方向に行く可能性が大です。
多くの方が UOの歴史 やネットゲームの知識・常識を持ち、それにあたることが出来るようになる事を望んでいます・・・

(あとがき)
この記録を書いたのは 2002年4月なので、今はさらに時代が進んでいますね。
「UO:LBR の時代」もすでに終わりを迎え、UO:AoS の時代に入っています。
いつかこの記録も書き足さないといけませんね〜。
日本のネットゲームも、FF XI が始動し、日本語版 EQ が現れ、RO が正式スタートしました。
いつかどこかで、ネットゲーム自体の歴史も語られるのかもしれませんね。