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「師よ、私はさまざまなサーガを耳にしてきましたが、その出典を耳にしたことはありません。いったいどこで伝説は生まれてくるのでしょう?」 ブリタニア編 第一部:BLIND VIRTUEその影は、あたかも冬の霧の吐息のごとく城壁に現れた。たそがれ時。影は雪がまばらに積もった防壁や銃眼を通りすぎていく。音をたてることもない。冷えきった空に白い息を吐くこともない。注意深い観察者でさえ、この影を一人の男として認識できなかったであろう。その黒い影は、どこに人目があるかを本能的に知っており、その外へ外へと身を保ちつづける優れた技を持っているようだった。やがて、次はどう動くかを決めかねるかのように、影は城内でもっとも高い塔に近づいたまま動きを止めてしまった。琥珀の輝きが最上層の開かれた窓から放たれた。内側で低い囁きが交わされあう。闇の中に、傷んだ石の埃と砂の匂いに包まれて、影は身じろぎもせずにうずくまっている。まもなく闇をかき乱して立ちあがると、剣を抜いた。昇り始めた月が刃の中で瞬いた。 下方の庭園から発見者の叫びがほとばしる。影は、まるで自分の巣にいる蜘蛛のように、影は塔へ向かって闇から闇へとすばやく動いていった。叫びが緊張度を増加させると、幻は角に滑り込み、いま明渡した空間に押し寄せる光の洪水を避けた。影は再び動きを止めた。 光は魔法。時は現実。 凍てつくような空気が突然の微風に渦巻いた。まるで風を結晶化したような輝きと共に、第二の男が防塁上に降り立った。どこからともなく現れたその男のマントは、嵐の中の雲のようにはためいていた。 影は剣を振りかぶって打ちかかった。マントの男がすばやく剣を抜いて受け流す。激突の中で月光が閃き、凍てつく夜を金属の響きがつきぬける。影が攻めたてる。二本の剣は互いに何度もぶつかりあい、正確な斬撃が巧妙な反撃を問いかけては激しい不協和音が城壁を穿つ。足元では新雪の飛沫が舞いあがっていた。
やがて静寂が訪れた。二人は互いに距離をとった。影は口を開くと驚くほど柔らかな声で話し始めた。 暗殺者は無言のままだった。 呪文は完成された。魔術師ブラックソーンは荒れ狂う風を解放すると、剣を鞘に収めた。ブリタニア城の衛兵たちが、暗殺者の折れ曲がった姿に殺到するのを、ブラックソーンは上に立つ者の観点から眺めていた。悪人とは言え、死から救う治癒の魔法が施されて当然だった。聞いておかなければならないこともある。まだやるべき仕事は残っているのだ。 魔術師は眉をしかめた。ブリタニア城に暗殺者現る。ロード=ブリティッシュの伝説的な忍耐力に挑戦しうる事件であろう。ロード=ブラックソーンは、自分の忍耐力が友人の半分ほどもないことを自認していた。その点が、ブリティッシュが君主としての力量に優れ、ブラックソーンが囚人への尋問に才能を持つ理由だった。 監獄の息苦しい闇の中、ロード=ブラックソーンは鎖に繋がれた預言者を見下ろした。ランプがオレンジ色の光で照らす中、自らの血にまみれ、青ざめて身を震わせる囚人がいた。若い。齢40を数えるブラックソーンの半分にも満たない。数年来の肉体的修練がもたらす発達した筋肉がついたたくましい手足。癖のない髪の毛はきれいに撫でつけられていた。着衣は、血にまみれてところどころ裂けているが、完全な黒単色。ふと、太股にあるものを見出した。傷口から血を吸い上げる包帯が巻かれたその太股には、絶え間なく鞘を身につけていることを示す痕跡が残されていた。 静寂が地下牢の壁にこびりつく。ブラックソーンの吐息は眼前で亡霊と化す。闇が彼の周囲に屈みこみ、ランタンの灯りをすすりこむようだった。その部屋は、嫌悪すべき記憶と同じ匂いがした。 「答えてもらおう、暗殺者よ」とブラックソーン。「早くも年貢の納め時になったな」 「そうはいかぬ。まず説明を聞かせてもらおう」 ブラックソーンは歯軋りした。髪の毛を落とし、ヤギ髭を短く揃えているせいで、ここ最近の寒気はブラックソーンの顔に噛み付いてくるようだった。人と昆虫から発生する悪臭と、埃の蔦がからみついた大気に満ちたこの場所から一刻も早く出ていきたかったが、真実が分からないままであるのなら、快適さなど呪うべきものでしかなかった。 「言ったでしょう。誰のためでもない。私はただ、天命に従ったまでです」 若者は咳き込むと、唇をぬぐった。「私は預言者です」 「そう、君はそう言った。だが私には、本職の殺人者かどうか、実際に見れば分かるのだよ。素人では、城壁にかけられていた見張りの呪文を巧みにかわすことはできなかっただろうな」彼は重いため息を吐きながら熟考した。「よろしい、預言者どの。君は、君の君主であり私の友人である、ロード=ブリティッシュを弑し奉ろうとした。一体、どのような予見が、この自滅行為に走らせたというのか?」 「ロード=ブリティッシュはこの国に破滅をもたらすでしょう」 「たわけたことを。陛下は我々を、何度も何度も、破滅から救い上げてきたのだぞ」 「私の千里眼は嘘をつきません」と言って、預言者は重心を移動させた。鎖が床に新しい傷跡を作る。 突如、貴族は囚人のぼろぼろになったチュニックをつかむと、地面から引きずりあげた。「その気になるさ。ブラックソーン城には君をその気にさせてくれる専門家がいるのでね。この忌々しい寒気のおかげで、彼らは私以上に機嫌を損ねている。だから、彼らは君という冬至の贈り物に感謝するだろうよ」彼は深呼吸した。「さて。よく聞いてくれ。階段の上では、暖かいワインと快適な炎が私を待っている。私はこのような不潔な場所にあまり長いこといようとは思わない。よって、君がこの最後の瞬間を最大限に利用する方法はひとつ、真実を私に告げることだ。そして、私ほど好意的に話を聞ける耳に話しかける機会は二度とこないだろうな」 預言者の声音は真剣みを帯びた。「ロード=ブリティッシュは、ブリタニアを闇の中に放りこむ呪文を唱えようとしています。宮廷魔術師と共に、この計画を練り上げてきたのです。そして、自分たちがもたらそうとしている恐怖について何も知りません。私には見えるのです」 「確認を取ろう」 ブラックソーンは囚人から手を離した。「嘘をついたことを後悔するんだな」 預言者はひざまずいた。「嘘ではありません。お願いです。お願いですから、必ずご確認を」彼は苦しそうに唾を飲みこんで、熱っぽい視線を上に向けた。「徳の名において、閣下、私の心が私に命じたことを、閣下の心が閣下に命じることを祈ります。ロード=ブリティッシュを止めなければなりません」 ロード=ブラックソーンは鼻を鳴らして、しばらくの間、傷ついた男を見つめていた。それからランタンを拾い上げて、憂鬱さと冷気が立ちこめる独房に囚人を残したまま背を向けた。ブラックソーンのマントが主人の周囲を踊る。ブーツが石床を削る。ドアがしわがれ声をあげて開き、地下室のすえた臭気を追い散らす新鮮な夜の空気と月光の進入に許可を与える。ブラックソーンは身震いして立ち止まった。「名前は何という、『預言者』どの?」 「エグゼドゥアです、閣下」 「エグゼドゥア。君は魔法の警報をひとつも鳴らすことなくブリタニア城に侵入した。もし私が庭園から君を見つけていなかったら君の計画は成功していただろう。どうすればそんな芸当ができるのだ?」 「お教えしたはずです、閣下。私には未来が見えるのです。そのために、間違った一歩を踏まずに済みます」 「だが、君を倒した呪文を予知してはいなかったな?」 「私は自分の才能に疑問を持っていません。ただ必要なときにだけ用いるのみです」彼は再び咳き込んだ。声に力強さが戻った。「そして閣下、今夜、どのような間違った一歩を踏むおつもりですか?」 ブラックソーンは、貴族や追従者たちをしばしばおびえさせる、銀色の月光ほどに冷たい猛禽類の眼光でそれに応えた。だがその眼光は漆黒に吸い込まれる。まるでかの暗殺者の姿が消えたかのように。ブラックソーンは不満のこもったつぶやきを漏らし、独房のドアを音を立てて閉めた。マントの上から肩をすくめると、彼を骨の髄まで傷めつける寒さをしのぐために、ブリタニア城の大広間へと足を速めた。 暖炉の炎がしわがれ声で咆えた。ロード=ブラックソーンは、背もたれが高くしつらえられた椅子にもたれかかり、体が暖まるのを待った。スパイスド・ワインのゴブレットが手の内で眠る。休憩室の絵画やタペストリー、華麗な調度類は、王権の演出に見事な成果をあげていた。ブリタニア城は、例えばこの部屋のような小さな部屋にさえ豪華な内装が施されていることでよく知られていた。そのために、ロード=ブラックソーンは季節ごとに少なくとも一度は登城するようにしていた。もっとも、実際にロード=ブリティッシュの歓待を受けた回数はそれよりもほんの幾分多いのだが。 ブラックソーンは腰掛けたまましばらく動かずに、薪からあがる煙の香りや、顔や足の裏がを暖める炎の感覚を愉しんでいた。夕方から続く想定外の騒動で高ぶっていた感覚が緩んでいった。 「ワイン、まだお飲みになりますか?」 と、後ろから女性の声がした。 貴族は微笑を顔に浮かべると、振りかえらずに答えを返した。 炎が照らす空間に、豪華な緑色のドレスを着た若い女性が現れた。手にはワインのピッチャー。金色の髪は編み紐の泉の中に引き込まれている。その顔は「天使のような」と形容されうるだろう――暖炉の炎を写しこんだかのように悪戯っぽく輝く瞳さえなければ。 ブラックソーンはゴブレットを彼女に方に傾けた。金髪の少女はブラックソーンのゴブレットにワインを注ぎ、続いて傍らにある小さなテーブルに乗っていたゴブレットを満たす。彼女が手近な椅子に腰掛けると、二人は何も言わずにお互いのゴブレットを軽く触れ合わせた。 「やむをえなかったんだよ、ガブリエル。やり過ぎではなかった。力を抑えた呪文では逃げられてしまっただろう。まったく、私に発見されたのは彼にとって目のくらむほどの不運だったろうな」遠くを見つめるように炎に視線を固定したまま、ワインを少し傾けた。「おそらく、こと剣に関しても私と五分五分といったところに違いない」 「まあ、奇才の戦士に対等と認めてもらえるなんて」といって彼女はくすくす笑った。「ロード=ブリティッシュは彼をどうなさるおつもりなの?」 「まだ陛下にはお知らせしていないよ」 「なるほど。それと、その招かれざるお客さまは何かお話になりました? 今は無事に閉じ込められているはずですけど」 「奇妙なことを、レディ。とても奇妙なことをね。彼は、この暗殺者はとてもユニークな人物だよ。何せ預言者を自称するんだからな」 「預言者!」 彼女は手を止めて考え込んだ。「超洞察力、ね。なるほど、そう考えるとどうして閣下の行動がことごとく先読みされたのか説明がつきますわ――もちろん結末は例外、ですけれど」 「確かに。だが、予見能力について嘘をついていたとは思わない。心からの言葉だったように思う。そして私を説得しようと…」 ここで貴族の言葉は途切れた。燃え上がる炎を見つめてあごひげをなでながら、地下牢の床に打ちひしがれている若い予言者のことを回想した。あの瞳の背後に焼きつけられた秘密、彼は拷問の脅威にさらされたときですらそれを明かさなかった。ブラックソーンはワインをぼんやりと揺らした後テーブルに置くと、同伴者のほうに向き直った。「レディ、しばらくそっとしておいてもらえるかな?」 彼女は落胆したそぶりを見せたが、それも一瞬のことだった。「ご随意に、閣下。何をなさるおつもりでしょう?」 「我らが預言者さまの話にもっと聞きたいことがあってね」 彼は炎の前で手を曲げた。「今回は、あまり礼儀正しくやるわけにはいかないな」 魔術師にとって、人の夢は血や肉と同様に現実性と具体性を持つ。ただ、扉の鍵をはずさなければならないだけだ。 ブラックソーンは休憩室に腰を落ち着けたまま呪文を詠唱し始めた。指を眼前に立てる。急速な集中状態に視線は固定され、万物それ自体を従わしめる古代の命令を非の打ち所もなく発声した。言葉を紡ぐにつれ、現実性の緞帳はエーテルのカーテンのように揺らいでいく。血肉・物質。加えて雑念といったものが、呪文によって退けられていった。 傍らのボールに盛られた大量の貴重な黒真珠が輝きを発しては、煙とともに消える。一方独房では、エグセドュアが震えながら眠りに就いていた。 今やブラックソーンは予言者の苦痛に満ちた夢の中を歩み入った。暗殺者の深い苦悶に魔術師は愕然とした。荒れ狂う秋嵐のように襲い掛かる過酷な悪夢が若者の精神を責め立てていた。幾千もの情景、音、生命感、抑圧された感情がブラックソーンの周囲に渦巻く。殺した犠牲者たちの恐怖を浮かべた顔があった。母親を失って泣き叫ぶ子供がいた。鮮血の鋭い香り。剣が貫通する音。また別の暗い心象が通りすぎていく。輝く月のもと、エグゼドゥアが独りきりで歩いていく。その一方で、手を取り合って歩く恋人たち。 風に乗った枯葉のように、思念が彼の回りを飛び交う。ブラックソーンはその中に、悩ますように羽ばたいては飛び去っていく、断片的な未来を覗き見ることができた。魔術師は驚いた。暗殺者は嘘をついていなかった。ブラックソーンはブリタニア城に日が昇るさまを見た。まだ数時間は見るはずのない光景だ。また、彼は彼のそばにレディ=ガブリエルが眠っているのも見た。ロード=ブリティッシュと議論している自分の姿も見た。 軍隊がブリタニアのどこかに集められている。暗殺者は厚い雪壁に閉ざされた地下牢から連れ去られていた(ブラックソーンはこのことを心に留めた)。剣と剣の衝突。兵士たちの戦の叫び。 けれどもブラックソーンが探している予見はただひとつ。それは、暗殺者の精神内にある吹きさらしの洞穴の中に埋もれていた。それは大部分の想念と比べると、より筋の通ったものだった。エグゼドゥアは、予見が明かしたものを繋ぎ合わせずにはいられなかったのだ。ブラックソーンは慎重に調査していった。エグゼドゥアが主張したとおり、それは魔道師のローブを着たロード=ブリティッシュを描いた想念だった。傍らに立つ白髪の男は宮廷魔術師ニスタル。彼ら二人は暗い魔術室の中で詠唱していた。棚には王がもつ財産すべてよりも貴重な魔法の道具類が積み上げられている。中でもいちばん価値のあるものは、彼らの前にあるテーブルに置かれた丸い大きな青水晶のレンズだった。レンズには、一冊の本が映っている。ブラックソーンはそれがなんであるか、瞬時に理解した。「 その結果については長く待つ必要はなかった。予見は、ニスタルとブリティッシュが儀式を完成させるにつれて、こなごなになって崩壊していった。やがてなじみ深いブリタニア城の情景は、闇と煙に置き換わっていった。 大地は震えながらひび割れ、炎を噴出した。河は油と汚物の流れに変わった。稲妻が雷雲で濁った空を切り裂いた。樹木と動物は奇妙に変化して怪物となり、ブリタニアの人々もまた怪奇な姿へと変貌を遂げた。恐るべきかな、油っぽい何かが空を埋め尽くしていた ブラックソーンはその風景にたじろいだ。今まで、これほどに風変わりな悪夢を見たことがなかったからだ。ましてや、これはただの夢ではなく、不快な未来の一端ですらあったのだ。魔術師の精神はそれを否定しなかった。叫び声をあげると、彼は預言者の夢の世界から撤退した。休憩室のブラックソーンが目を開いた。目の前では暖炉の炎がぱちぱちと音を立てている。噴き出した汗が彼の肌を湿らせていた。ワインのカップが傍らに転がっている。無言のまま立ち上がり、背もたれにかけておいたマントを取り上げた。ドアに向かって大またで歩み出したとき、彼の目には恐怖に満ちた鋭い光が宿っていた。 ソーサリア世界のブリタニアという国では、大人も子供もロード=ブリティッシュを偶像崇拝している。戦士であり魔道師。英雄であり支配者。幾度となく人類を救った救世主。ロード=ブリティッシュは一人の男というよりむしろ、伝説とも言うべき存在だった。彼は決して老いさらばえた人間ではないのだが――ブラックソーンより数歳上であるにすぎない―― また、長老や賢者たちが畏怖を込めてその名を語るがゆえに、人はこの支配者がブリタニアで数世紀を生きてきたように思いこんでしまうのかもしれない。その偉業の数々が語られるたびに、一歩ずつ、彼は神話の世界へと階梯を進めていく。もし彼が星々に城を築いては彗星狩りに汗を流しているのだとしたら、その臣民は、彼はここにいないのだと思いこむに違いない。 それ故に、ブラックソーンは自分だけがただ一人、ブリティッシュを一人の男として見ているのではないかと思ってしまう。あるいは、それもまた真実の一端であったかもしれない。ブラックソーンがブリティッシュに出会ったとき、やがて伝説となる男は、今まで知らなかった世界に置き去りにされた孤独な追放人だった。ブリティッシュはイオロやデュプレといった友人たちから戦の技を学んだ。さらに、この若い冒険家は、すでに輝くばかりの魔術の才能を著していた。だが、この珍しい風来坊が持つ真の力に気付いていたのはブラックソーンだった。高貴な生まれであるブラックソーンがこれまで見たこともないほどに、才気と活気に溢れた情熱。素朴さ。理想。そこに、ブラックソーンは王者の原石を認めたのだった。ブリティッシュに欠けていたのは、狡猾さや外交力、政治力といった技術であり、それが指導者と支配者を分かつものだった。そして、それらの技術はまさにブラックソーンが得意とするものだった。だから彼は、新しい友人に帝王学を教え、高潔さに目を向けさせ、最後にはブリタニアへの玉座へとその出世を導いたのだ。その道程は長くて骨の折れる年月だった。お互いに、何度命を助け合い、また何度殺し合おうとしたことか分からない。ブリティッシュは手腕と巧妙さを身につけ、ブラックソーンは徳と勇気を学んでいった。二人はまるで兄弟のように成長していった。 15年後、彼らは二人でひとつの統一体にまでなった。そして、ブリタニアの屋台骨となったのだ。 ブラックソーンは、ブリティッシュの年齢に少し足りないといえども、ブリティッシュのことを弟だという思いこみを止めたことがなかった。人がブリティッシュに伝説性を見出す部分に、ブラックソーンは、頭脳よりも心が優れている孤独な追放人の姿を見出すのだった。身長差はなかったが、ブラックソーンは友人の頭上から注意を喚起するという態度をとり続けた。そして、下賎の者が夢見たことすらないような自由気ままな話し合いをした。 「君はいったい何をするつもりなんだ?」と、ブラックソーンは小さな飾り立てられた部屋の戸口に立ったまま言った。その友人をじっと見つめたままで。「気でも狂ったのか?」 年長の男はただ一笑に伏した。ブリティッシュは就寝時用の高級なローブに身を包んでいた。彼はたらいに張った湯で顔を洗い、濡れた手で肩まである髪をすすいだ。水滴が見事なあごひげに飛び散った。蝋燭の明かりが水滴に映りこむ。「今日はもうおそい。少し休んだ方がいいだろう」 「時刻などなんだと言うんだ! さあ君が言った言葉を繰り返してくれ。きっと私がどこか君の言葉を聞き間違っていたに違いない」 「私とニスタルはあの古写本を 「私はまだ暗殺者の悪夢に捕われているのか?!」 ブラックソーンはこめかみのあたりをほぐした。「ブリティッシュ、それは不可能だ。滅ばざる魔石は砕け散ってしまったんだ。砕けた石のかけらを拾い集めて糊付けしても、元通りには戻らないんだよ」 「ニスタルはそれが可能であることを証明した」ブリティッシュは蒸気を上げるタオルで顔を人撫ですると、背後にある寝室へ向かって一歩足を進めた。「成功には疑問の余地もない」 「ニスタルが証明しただって? どうやってそんなことを証明して見せるというんだ?」ブラックソーンは、友人の後を追って寝室に入った。ブリティッシュは自分の飲み物をついでいた。ブラックソーンは自分の考えをまとめるために一瞬だけ静止した。「聞いてくれ、ブリティッシュ。滅ばざる魔石はたんなる魔法の石じゃない。それはまさにソーサリアの本質を封じ込めたものなんだ。だからそいつが砕け散ったとき、ソーサリアもまた断片化した。それぞれの破片が独自の世界となった。それぞれの世界は大元よりも下位にある、それは間違いない、だが、それらはみな違うものなんだ。区別され、孤立したもの。知っているだろう?」 「もちろんだ。そう、君の指摘した点こそまさに私が修正しようと意図する点なんだよ」年長の男は彫刻が施された背の高い寝台の柱にもたれかかり、器の中身を一口含んだ。「ブラックソーン、考えてもみてくれ。我々は不完全な世界に生きている。どこか違う場所、かけらの中、ソーサリアの影に閉じ込められている。鏡像。千の複製ブリタニア、複製の私、複製の君、何もかもがそう。まさに我々の魂が粉々に砕け散ってどこかに行ってしまっているんだ!もし私がそれを元のようにひとつにできるとしたら――もし私が引き裂かれてしまったブリタニアを元の姿に戻せるとしたら―― それを為すまでどうして安穏としていられる?この国を、人々を失われた姿に再統合するために全力を尽くすまで、どうしてこの国と人々に責任を負っているなどと主張できる?」 「愚直にも程がある! なんという愚考をしているんだ、君は! 愚考よりももっと酷い。それは計り知れないほど危険なんだ。滅ばざる魔石に干渉することはすなわちソーサリアの土台に干渉することだぞ。何もかもを破壊してしまうつもりなのか? ニスタルも君もそんな呪文を使いこなす技量を持ってはいない、それは分かっているだろう?」 「だが我々には古写本がある。ニスタルは写本を映し出すための「渦巻のレンズ」を再構築し、今も彼の魔術部屋に保管している」 ブリティッシュは飲み物を置いて、友人の肩に手をかけた。「ブラックソーン。それは単なる人知の魔法を記した単なる呪文書じゃない。『究極的叡智の古写本』だよ。そこには君にも想像できないような秘密が記されている。もちろん危険はある。だが、何にでもリスクはつきものなんだ。私と君は敢えて冒すべき危険 ブラックソーンは友を見つめた。刹那、ロード=ブリティッシュの瞳にありうべき理想郷が見て取れた。ブラックソーンはその虚ろな魂が満たされていきそうなのを感じた。彼は、飢えた男が食物を欲するように、それを渇望していた。だが、漆黒の予見がそこへ押し入り、劣悪・荒廃・不吉・驚愕が束になって彼を夢想の世界から追い出した。「では、見せてくれ。ニスタルが君に証明したものを。私にも証明して見せてくれ」 「だめなんだ」 ブリティッシュはため息をついて、飲み物に目をやった。「二人以外の人間をいれるわけにはいかないんだよ。時がくれば君も含め、ブリタニア中の魔術師を呼んで手伝ってもらう。だが呪文を知るのは私とニスタルだけなんだ」 ブラックソーンの声が冷たさを帯びた。「たいそう疑わしいことだな、ブリティッシュ」 「それが、親しき友よ」と、ロード=ブリティッシュが答えた。「君を呼ばなかった理由なのだ」 窓の外では冬の風が勢いを増し、激しく城壁を打ち据えていた。 「では、あの暗殺者の預言をどう説明する?」 「それもまた疑惑の表現技法、だろう?」 ブリティッシュは額に残る水滴をぬぐった。「別に驚くほどのこともない。ふだんなら、窓の外に潜む暗殺者という異常者にも心を動かされていただろう。だが今、私はむしろ…自分の正しさが証明されたような気分を覚えるのだ。嫌悪すべきものは何か大きなものに触れる直前に訪れるものだ。そう、君は教えてくれた。『もっとも巨大な行為は常にもっとも巨大な抵抗にあう』とね」彼はまた飲み物を口に運んだ。ふと、遠い目になる。「ニスタルは、まあ間違いなくその暗殺者に興味を示すだろうが、私は今の気持ちをかき乱されたくない。彼が単独犯であることを君が納得したのであれば、私にとってはそれで十分だ。私の目はもっと他の本当に重要なことに向けられているからな」 ブリティッシュはここでいったん言葉を切った。「それは私による最大の偉業になるだろう。いや、ブラックソーン、全人類においても最大の偉業だよ」 ブラックソーンは腕を組み、歯を食いしばりながら言葉を吐き出した。「何の権利があってそれに挑戦する?」 ロード=ブリティッシュは息も止まらんばかりに笑った。彼の表情には本物の驚きがあった。「権利だって? あらゆる徳の名において、ブラックソーン、何の権利があってそれを見過ごすことができようか?」 そして、年下の男はもはや何も言うべきことが残されていないことを悟った。 ブラックソーンは重い扉を勢いよく開くと、ガブリエルの居室に押し入った。ガブリエルは白いガウンとローブを身にまとい、長い巻き毛の髪を結ばないまま流していた。彼女は飛びあがった。「何か――?」 「ニスタルめ!」と貴族は唸り声を上げると、扉を戸口に叩きつけた。「ブリティッシュは奴の呪文に捕われてしまっている。あの年老いた陰謀家に強迫観念を植え付けられて、計り知れないほどの危険を冒そうとしている」 「何がどうなったんですの? ご説明をお願いします」 「もちろん、説明するさ。ニスタルはこれまで一度も試みられたことがないほどに強力な呪文を唱えようと欲している。虚栄心に満ちたプライドからな。そして奴はブリティッシュを騙してその支援を手にしたのだ。くそっ、老いぼれ山羊に災いあれ!」 レディ・ガブリエルは眉をひそめた。「私のおじいさまについてお話しておられるのですよね」 「そのとおり」 彼は激しい眼差しを少女の上に固定した。「それはつまり君は私を助けるべき立場にあるということだ。ニスタルはいつブリタニア城に戻ってくる?」 「たぶん、明日の夕方かその次の夕方だと思いますけど。ムーングロウでの調査の進行次第だと思いますわ。でもなぜ?」 「その前にしてもらいたいことがあるからさ」彼は少女の小さな手を取って、自分の胸の上に当てさせた。「ガブリエル、信じてもらわなければならない。いま私を助けることは非常に重要なことなんだ。とても説明できないほどの危険が近づいてきている」 彼女の表情は和らいだが、眉にはまだ完全に開かれない。「ブラックソーンさま、いったい何が起きているのでしょう?」 「何も。何も起こさせてなるものか」彼は瞼を強く閉ざして目を休ませた。「よく聞いて、私の指示に従ってくれ。今はまだその理由を聞かないで欲しい。私には時間がない。あと数分でここを出ていかなければならない」 「出ていくですって!? いったいどこへ行くおつもりなんです?」 「ブラックソーン城へさ。君の祖父君の手に落ちることがないように、預言者どのは私の城へ連れて行く」魔術師は、宝石で飾り立てられた手を彼女の体に回した。「ブリティッシュは自らの理想に酔っている。ふたたび正道を歩ませるまで休んでいるわけにはいかなくなった」 ブリタニア城は、嵐になりゆく空の下、冬至の降雪の冷たい白さに包まれておぼろげに立っていた。 |
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