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ブリタニア編 第二部:ULTIMATE WISDOMブラックソーンはデーモンの言葉を学んでおいたことに感謝した。口を開くより早く、いま目の前に立っているものに首の骨をへし折られる可能性も十分にありはしたが。 ブラックソーンは腕力に訴えずに魔物の顔を見つめた。そのデーモンの身長は彼の二倍ほどもあり、体重については馬三頭分を超えているに違いなかった。手はブラックソーンの顔よりも大きく、鋭く砥がれた屋根板のような鉤爪が生えていた。不快な生き物だった。腐りかけた血糊と汚物が、汚らしい肌の上で染みとなり、翼の折り目で凝塊していた。身動きするたびにその塊が床に撒き散らされた。だらしなく吊り下がった巨大なあごからは空気を淀ませる腐った霧が漏れ出していた。牙には胆汁色の斑点がこびりついていた。 だがその声は、傷のない鉄の鈴のように格調高く深々と響き渡った。 「ことによると取引ができるな」 言葉には腐敗臭がまとわりついていたが、壁はその清浄な音を忠実に残響させた。 ブラックソーンは鼻の頭に皺を寄せて答えた。「そういうわけにもいかんのだがね。だが今の私に他の選択肢はなさそうだ。どうして欲しいのか言ってみろ」 「こっちへ来るのだ」 魔物の巨躯に合わせてのことか、その回廊の天井はかなり高い位置にあった。階段道は小さな玄関から始まり、デーモンが立ちふさがる目の前の扉で終わっていた。影法師が松明のゆらめきに合わせて踊った。飾り気のない石壁はこと豪奢なブリタニア城では場違いの観があったかもしれない。この最深部まで来たことのある少数のもの以外にとっては。ここが、老宮廷魔術師ニスタルの支配地だった。彼はここに必要最小限の装飾――扉に刻まれたルーンやデーモンの周りに描かれた魔方陣のような――しか施していなかった。 ブラックソーンは、魔物から撒き散らされたものが綺麗に磨かれたブーツを汚さないように注意しながら、デーモンへ向かって足を進めた。しかし、魔方陣の中に入ろうとはしなかった。 デーモンは角の生えた顔を引っかいた。爪がのろのろと汚い染みの上を進んだ。「残念ながら、おまえにこの扉をくぐらせることはできぬ。私はニスタルの命令に縛られている。ここを通れるのはニスタルとロード=ブリティッシュだけだ。もしおまえがこの魔方陣の中に入れば、私はおまえを殺す。が、しかし…」 ブラックソーンは眉を釣り上げた。 「…しかしだ、ロード=ブラックソーン、おまえほどの腕を持つ魔術師ならば私を解放することができるかもしれぬな」 ブラックソーンは首を振った。「私にはできない。ただ一時的な自由を与えてやることしかできない」 デーモンは鼻息を荒くした。「私は地獄の君主たる身なのだぞ。そういった不当な提案で侮辱するのはよせ」 「私は扉に面している方の魔方陣を開くことができる。おまえはまだ自分の世界に帰ることはできないだろうが、扉の奥に私と一緒に入ることはできるだろう。そして、部屋の中に何があるか、知っているはずだ」 魔物は目を細めた。その瞳には体を突き抜けるような明々とした輝きが宿っていた。「『究極的叡智の古写本』をデーモンの目に入れようと言うのか?」 「おまえが『古写本』を見ようと見るまいと、私にとって些細な問題にすぎない。私はその扉をくぐらねばならないんだ、さもなくばおまえの望みも私の望みも実現されない。中に入ることさえできれば、おまえは自らを解放するのに十分な力を得るだろう。そして、私はおまえから身を守るだけの力を得ることができる」 ブラックソーンは微笑んだ。「分かったか?」 「分かった」 デーモンは脇に退いた。その巨躯が淀んだ空気をかき乱した。「開けてくれ」 ブラックソーンは魔方陣の中に足を踏み入れた。デーモンの筋骨たくましい胴体の内部から昂ぶった不気味な心臓音が聞こえてきた。魔術師は魔法の円輪を取り囲むルーンを調べていった。「ニスタルは几帳面だな。だが、あまりにも個性に欠けすぎる。少し待ってくれ」 彼は跪くと魔方陣の上を指でなぞった。デーモンは、環状の涎を垂らさんばかりの熱心さで見つめていた。 そのとき、ブラックソーンは膝から旋回すると、魔物にジャブを叩きこんだ。その腕は本来の長さを無視するかのように伸び、デーモンの分厚い胸板を突き破った。魔物は咆哮した。盾ほどの大きさがある手のひらが魔術師に向かって振るわれたが、間一髪、魔術師は身を屈めてその攻撃をかわした。ブラックソーンは腕を引いた。汚らしい蛇のようにくねくねとのたうつ何かが手に握られている。 熟達した韻律で呪文の詠唱が行われた。ベルトにある小さなポーチが、襞のない口を開けた。ポーチから噴き出した旋風は、その蠢くものを捕らえて中に吸い込んだ。ブラックソーンは素早く紐を引いてポーチの口を閉じた。 デーモンの不浄な体は地に倒れ、石の上で痙攣していた。ポーチは身もだえし、暴れまわった。 魔術師は自分自身を落ちつけるのに少し時間を必要とした。ひどく呼吸を計り損ねたな。そう思いながら額をぬぐった。もうすこしで肩から上を消し飛ばされるところだった。 ウソツキ。頭の中で別の声がした。 ブラックソーンはくすくす笑った。もちろんそうだとも、ガブリエル。最初に手を下す機会を得たのは向こうなんだ。デーモンとの取引は、虚言の決闘さ。何にせよ、急がなければ。しばらく君との連絡も断つ必要があるだろう。 “一緒に行く”というのは本気ですよね? やむをえないね、レディ。ブラックソーンは身動きしなくなったデーモンの肉体の傍に腰を下ろした。かすかな呟きを漏らしながら瞳を閉じる。一瞬遅れて、デーモンの瞳が開かれた。 ブラックソーンは思った。何てことだ、こいつは私の魂を著しく損なうな! デーモンの体の中に入りこんだ魔術師は床から立ちあがった。後ろを振り返ると、そこには自分が残した染みがあった。さっさとやってしまおう、この状態に長々と我慢できそうにない! レディ・ガブリエルの推測は正しかった。ニスタルはデーモンから魔力の一部を借りて呪文を行使したため、呪文室にかけられていた防護の魔法はデーモンには通じなかったのだ。ブラックソーンは残りの防護を彼自身の力で解除した。デーモンの魂は魔方陣の中に閉じ込められていたが、肉体はそうでなかったため、魔術師は魔方陣の外を自由に歩き回ることができたのだ。ブラックソーンは扉を押し開くと、その不快な巨体を室内に押しこんだ。 その部屋は計り知れない価値をもつアーティファクトの博物館だった。隙間なく並べられた棚には、鉱物や武器、宝飾品に書物の山がぎっしりと詰めこまれていた。ブラックソーンはその大部分に見覚えがあった。それらはかつて彼自身が所有していたものだったからだ。言うまでもなく、ブリタニアにある真に強力な魔法はロード=ブリティッシュの手とニスタルの興味とに帰するようになっているのだ。老魔道師はサイロに住む飢えたネズミのように、アーティファクトのひとつひとつを吟味したことだろう。 あったぞ、『古写本』だ。ブラックソーンはガブリエルに“想った”。私の力を信じてくれ。薄気味の悪い大冊のイメージが、大理石の台座に取りつけられた大きな青いレンズに浮かんでいた。そのレンズは、『古写本』が実際に存在しているグレート・スティッジャン・アビスへの窓だった。開かれた『古写本』は、地底の聖域への陰気な幽閉から浮き上がるようでもあり、また誘いこむようでもあった。その文字は、ブラックソーンがこれまで見たどの文字とも似たところがなかった。黄ばんだ羊皮紙に泥が撥ねたような。形となることを拒否するような。複雑かつ優美な模様のようでもあった。一瞬の間があって、デーモンの目を文字に集中させることに成功した。そして、彼はその途轍もない力を目にした。 人の夢を具現化する公式があった。これらの呪文をもってすれば、ブラックソーンはブリタニアを変えることができただろう。すべての邪悪を取り除くことができただろう。もはや街と街を隔てる荒野に強暴な野獣が徘徊することもない。もはや街道が罪なき者を獲物とする浅ましい臆病者の狩場となることもない。もはや軍隊が意味のない戦争へと行進することもない。もはや人々がロード=ブリティッシュの息が詰まるような徳を必要とすることもない。『古写本』は、ブラックソーンが常々求めていた力を持っていた。世界を彼の望むように作り変える力を。 ブラックソーンはにやりと笑うと、台座からレンズを取り外そうとした。見ると、伸ばした腕はデーモンの腕だった。剥き出された歯はデーモンの牙だった。唸りながら歯を食いしばり、拳を握り締める。違う。まやかしだ。ブリティッシュとニスタルと同じように、私を取りこもうとしているんだ。ここにいる目的に集中しつづけなければ。 大丈夫ですか? ガブリエルが遠くから問いかける。 ああ。深呼吸する。エグゼドゥアはそばにいるか? ええ、鎖と枷はそのままで。でも、せめて衛兵さんたちに彼の体を洗うように言ってくださればよかったのに。地下牢の臭いがどうしようもないくらい。 その意見に同調できる気分じゃないな。問題の呪文を探し始めるところだと伝えてくれ。私の身に危険が迫ってきたときは教えてくれるだろうと期待しているんだからな。 なぜそこまで彼を信用するんです? 我々は同じ目的に向かって行動しているからだ。その点を彼にしっかり分からせておいてくれ。うまくいったら、そのときは焼き立てのパンと温かい風呂を用意させるとも。忌々しい! 何か? 祖父君のデーモンはその……放出物を抑えることができないんだ。 閣下、エグゼドゥアさまは準備できました。いつでもどうぞ。 『究極的叡智の古写本』の走査はブラックソーンの意思力に負担を課した。ページをめくるのは簡単な思念だけですんだ。どのページからもブラックソーンを惹きつける古代の秘密が感じられた。表題と傍注のみに調査を限定することで心の平静さを保ち続けたが、学者としての彼が通りすぎていく禁断の知識の一句ごとに心の中で嘆きの声をあげた。 ブラックソーンさま、ストップ! デーモンは目を閉じた。どうした? エグゼドゥアさまが痙攣を。ええ……次のページに探している呪文があると言っています。 分かった。ブラックソーンはそのページを弾き飛ばすと、隔たれた協力者の次なる声を待たずに『古写本』を読み始めた。 鉄と油の味が口の中に広がった。混濁した空の下、奇妙な風景が広がっていた。まるで巨人たちが千の城塞に鎧を釘づけにしたようであり、そしてそれは徐々に崩れつつあった。錆色の風が建物を倒壊させた。何かが空の煙がかったアーチ道をくぐってどこかへ消えていった。汚物の河が不精そうに漂っている。この風変わりな光景の中を、黒や灰色のフードつきローブを纏って長い旗指物を手にした人々――あるいは人に似た何か――の長蛇が行進していた。旗は、理解できない――あるいは気に入らない――シンボルのようなもので埋め尽されていた。また、そのローブの人影たちが絶対的な統一性を保っているのも気に入らなかった。訓練された軍隊のものではない。むしろ、自動人形が持つものだった。 捕虜の一団が彼らの前を引きずりまわされていた。捕虜たちは全裸でよろめいていた。この距離からでも、ブラックソーンは捕虜たちの肌に無傷なところなど1インチもないと断言することができた。それでも彼らは自分たちをうらぶれた道に押さえつける槍や矛に屈してはいなかった。彼らの中に混じっている子供たちですら耐えていた。流れる血は勇敢さの証だった。 その行列は恐ろしいほどに静まり返っていた。捕虜たちと対照的に、フードの人影は無感情で、何の情熱も愉楽も見せていなかった。 だがブラックソーンは違った。ブラックソーンは愉楽を感じていた。 ふと我に返ると、自分が破滅しつつあるのを悟った。不気味な金属製の魔物が、鋸のように削げ立った胃の中に彼を呑み込もうとしていた。鉄と鋼でできた歯車の歯を木と革で固定したものの塊が激しく揺れ動いている。その不定形の獣は、外気にさらされた異様な内臓から煙と蒸気を噴き出していた。彼の体はすでに半分以上も呑み込まれていた。彼はそれを打ち倒すべく手をあげた。 悲鳴を上げる。彼があげた手は、魔物の金属製の手だったのだ。 彼の肉体は地獄のような光景の上に浮いており、同じく浮遊している鉄の建物に鎖で縛られていた。 フードの男たちが彼の名前を冷たく無個性な声音で詠唱している。 煮え立つ油が彼の血管を流れた。 ブラックソーンさま! それはフードをかぶった人形たちの声ではなかった。 ブラックソーンさま! 返事をしてください! ブラックソーンは自分の名前を声に出して叫び返すと『古写本』から体を引き離した。不恰好な巨躯が反対側にあったかけがえのない財宝を粉々にしてしまったが、ブリタニアのあらゆるアーティファクトを犠牲にしても清浄な空気が欲しかった。壁にもたれかかってあえぐ。汚らわしいデーモンの肉体を目にしたとき、もうすこしで涙をこぼすところだった。 ブラックソーンさま! 何が起こっているんです、忌々しいことが? ブラックソーンは集中力を取り戻そうと顔に爪を立てた。心配ない、レディ。彼はガブリエルに“想った”。私は……私に怪我はない。 ちょうどブラックソーンさまが悲鳴を上げたとき、エグゼドゥアさまも倒れてしまって! 彼はブラックソーンさまの未来を見たと、ブラックソーンさまもそれを見たと言ったんです。いったい何を見たのですか? どんな未来を? ブラックソーンは花崗岩の壁に刻まれた深さ数インチの溝を鉤爪で探った。私の未来じゃない。彼は“想った”。女魔術師に、というよりむしろ彼自身に。私の未来じゃない。私はまず最初に死ぬだろうから。 「サスタグリエル!」 叫び声がした。予期していなかったものだが耳なじみのある声だった。ブラックソーンは振り向いた。老魔道師ニスタルが姿見を通って部屋の中に入ってきた。体を重いマントにくるみこみ、長い白髭を冷たい風に乱していた。「サスタグリエル、役立たずの犬め、わしを出し抜こうなど無駄というものだということが分からんのか!」 魔道師は腕を几帳面に動かしながら、ムラのある言葉で呪文を吐き出した。パチパチと音を立てる火の束がブラックソーンに向かって放たれ、その巨躯を強打した。すぐに火は消えていき、デーモンの眼光が空中を漂う煙を抜けてニスタルを射抜いた。 痛みはあったが、デーモンの透き通った声で彼は答えた。「私はサスタグリエルではない」 荒々しい鼻息と共に老人に体当たりする。ブラックソーンは巨大な手のひらで、ニスタルの喉周りを掴み、そのまま壁に押しつけた。ニスタルが喚いた。貴重な財宝がさらに床へ零れ落ちた。「死んでもらう! おまえの計画のために!」 ブラックソーンさま、やめて! ガブリエルの金切り声が頭の中で響いた。乱暴しないで! 私のおじいさまなのよ! ブラックソーンはその懇願に耳を貸さなかった。咆え声とともに向かい側の壁に向かってニスタルの体を放り投げる。魔道師は『渦巻のレンズ』を固定している大理石の台座に叩きつけられた。水晶の円盤が部屋の隅に飛んで音を立てた。ブラックソーンが再び襲いかかった。魔道師は必死の形相でその衝撃を振り払おうとした。魔道師の体をつかむ一瞬前、デーモンの両手が火花とともに燃え上がった。だが、ニスタルが即興で作り出した盾にブラックソーンは押し戻された。 「何者だ?」 ニスタルは咳き込んだ。稲妻の速さで虚空に紋を描くと、揺らめく光の紐がブラックソーンの鬼のような体の周りへと滑りこんで腕と翼を縛り上げた。ブラックソーンは自分自身の呪文を発動した。光の紐は虹色のきらめきを放ち始めた。さらにデーモンの強大な力を注ぎ込むと紐は閃光とともに消滅してしまった。 ニスタルは立ったまま次の呪文を詠唱した。今回はブラックソーンも準備していた。彼はよく研ぎ澄まされた反射神経で呪文を詠唱し始めたが、あいにくデーモンの手はブリタニア人の魔術師の手ほど器用な仕事に向いていなかった。ブラックソーンは瞳を大きく開くと、自分に向かって疾走してくる稲妻の槍をかわすために床に転がった。稲妻は翼を捉えてはげしく打ちすえた。もどかしく思いながらニスタルに向かって地獄の火柱を吐きつけたが、それは不可視の障壁によってそらされた。 「貴様が誰であろうとも」と、白いたてがみを持つ魔道師が言った。「わしのデーモンを返せ!」 次に何がくるかを悟ったブラックソーンはただ咆え声だけを返事とした。ニスタルが手を掲げると、部屋の中を荒々しい風が躍動的に吹き荒れた。魔道師の声が轟いた。ブラックソーンはその呪文に抵抗せずに魔物の体から押し出された。嵐がおさまると、デーモンは再び糸の切れた人形となって倒れた。 扉がきしりながら開いた。 ブラックソーンは彼自身の体に戻り、松明の揺らめく光輪の中に立っていた。彼の表情には不吉な陰が落ちかかっていたが、ニスタルは一目で誰であるかを悟った。 「徳にかけて、ロード=ブラックソーン、卿はいったい何をしようとしているのだ?」 「狂気を止める。私のとる行動が何を意味するにせよ、狂気を止める」 「卿はその死体をわしの呪文室から運び出す」 長くて雪のように白い髪を顔の前でもつれさせたまま言った。両手が白熱し始める。「それが卿がしようとしていることだ」 突然、激しい光が部屋の空気を切り裂いた。二人は後ずさりして顔をかばった。光が消えると、背の高い人影が混沌とした室内の中央に立っていた。 「紳士諸君」 ロード=ブリティッシュの声には怒りが潜んでいた。「三人で、腰を下ろして話し合うべきだと思う」 「間違っているのは君だぞ、ブラックソーン!」と、ブリティッシュは鋭い口調で言った。「今回の卿はやりすぎだ」と、ニスタルが同意した。広い正餐の間の端、燃えさしがまばらに残る暖炉の前に三人は立っていた。室内では、光と影が斑に交差していた。 「私が間違っていると?」と、ブラックソーンはロード=ブリティッシュに切り返した。「君たちが作り出そうとしている将来を見てみたのか? とんでもないものなんだぞ!」 「それは関係なかろう!」 ニスタルが二人の間に割って入った。「陛下、この男はわしの呪文室に押し入り、『古写本』をいじりまわし、さらにわしを襲いおったのです! これらの件についての釈明を聞かせてもらわなければなりませぬ」 ブラックソーンは老魔道師に向かって顔を突き出した。「そうとも、貴様が自分の計画を隠匿し続ける理由がはっきり分かったからな。ニスタル、貴様の野心は全世界を危険にさらすだろう。貴様の目は節穴か? 自分が呼びこもうとしている災厄が見えないのか?」 老魔道師は両手を上にして言った。「高名なロード=ブラックソーンに野心的と非難されるとは!」 「ブラックソーン、身贔屓はするんじゃないぞ」と、ブリティッシュ。「私がニスタルの企てにかつがれていると君は思いたがっているが、それは間違いだ。私はこの目的のために何年もかけて研究をしてきた。君もすべて知っているはずだな」 「そう、そして私はそれが愚者の夢であることを何年もかけて教えてきた。 ブリティッシュは背の高い椅子に腰を下ろすとこめかみを揉んだ。「その議論はもう何十回もやっただろう、友よ。我々は、お互いの意見に賛成できないという点で賛成した」 「私は賛成できない。この狂気に満ちた計画を取りやめないかぎり、賛成しない」 ブラックソーンは友人の前にかがみこんだ。「ブリティッシュ、どうか聞いてくれ。対立する必要なんかないんだ。明白な真実として、私は君の未来と、そこでの私の有様を見てきたんだ。それは恐ろしいものだった。私はその運命を受け容れたくない。君がどれくらい耐えうるかも想像できない」 「我々は違う未来を見ているに違いない。私の幻視が示したのはただ……平穏さだけだった」 ブリティッシュはため息をついた。「君の行為を大目に見るわけには行かないが、もし君がそれを恐ろしい未来だと思い込まされているのであれば、理解はしよう。君の預言者兼暗殺者が嘘をついているという可能性は考えてみたのか?」 ブラックソーンは頷いた。「だから私は『古写本』に助言を求めた。そして暗殺者が正しかったことを確信した」 「ではもう言うことはない。私は再統合の呪文に利益だけを見出している。心から、君が私の計画に同意してくれるようになることを願うよ。だがもう決めたことであり、君はそれを受け容れなければならないだろう」 ブラックソーンは背筋を伸ばし、目つきを鋭くした。「言っただろう、受け容れない、と」 ロード=ブリティッシュがにらみ返した。数年来の対立が重い沈黙の中にあった。 「よかろう」と、渋面のままブラックソーンが言った。「両君ともよい夜を」 そして、静かに部屋を出ていった。マントがその後を影のようにして追った。扉が音を立てて閉じられると、ニスタルはブリティッシュの傍に歩み寄った。 「卿は再び『渦巻のレンズ』に手を出そうとするでしょう」と、白髭の魔道師が言った。「あるいは我々を妨害する策略を」 「では彼を止めるんだ。やるべきことをやるがいい。言葉で納得させるのは無理だ」 ニスタルの視線が一瞬だけ王に向けて落とされた。「やるべきことを?」 「彼は私の友だ。主導権は彼にある。身分に相応しくない扱いはよせ」 ブリティッシュは指で髪をすいた。「『もっとも偉大な行為はもっとも大きな抵抗にあう』か。ブラックソーンめ」 どうか、おやめください。ブラックソーン城にお戻りくださいませ。 やむを得ないよ、レディ。 エグゼドゥアさまが、失敗に終わると。 彼が? 彼が確かにそう言っているのか? では私が戻らなかったときは何をすべきか、君は知っているな。 知りません。私の手におえることじゃありません。それにどうして私が、ブラックソーンさま? 私が君に願うからさ、レディ。以前他人に頼る必要があったとき、私はブリティッシュその人に願った。ガブリエル、私が何を言おうとしているのか分からないのか? お聞きしたくありません。 お願いだ。もし私が失敗したらすべては君にかかっているんだ。 さようなら、ロード=ブラックソーン。 ブリタニア城の中心部にある一基のほっそりとした塔。屋根の上に高くそびえたち、雪で覆われた尖端部は夜空に浮かぶ第二の月のように輝いていた。開かれた鐘楼から極寒の風に寄せてほろ苦い鐘の音が流れ出していた。 内部、その巨大な鐘の傍にマントの人影が現れた。ブラックソーンは身震いすると、冷たい風を遮るフードをはねあげた。 「思ったより早かったな」と、ニスタルの無愛想な声。闇が凍結し、老魔道師が姿を現した。縁の広い帽子をかぶって頭を風から守っている。「あらかじめ準備しておいたに違いない」 ブラックソーンは波打つマントに包まれたまま口を開いた。「レンズを貰っていく。あるいは、いまここでレンズを渡し、再統合の呪文についてのすべてを忘れると誓え」 「卿は怖いのさ」と、ニスタルが言う。「なぜなら、徳の道に従っていないのだからな」 「恐いさ、貴様の思慮のなさが」 ブラックソーンはマントを開くと、剣を握っている腕を露にした。「そして推測する。こうしたほうがよい、と」 その細身の剣はまるで赤い月光から鍛え上げられたかのようだった。柄の一部は透き通った水晶で、鋼で固定されていた。水晶の中身には小さな灰色の物体が浮かんでいる。 「正義と名誉にかけて! それはモンデインの指だな! ずっと持ち歩いていたのか?」 ニスタルは顔をしかめた。「卿のやり方は芳しくないとは思っていた。だがそんな呪わしいアーティファクトを使って自身の品性を落とすほどとは想像もつかなかったよ。うんざりだ、ブラックソーン卿」 「『シャドウガスト』と呼んでいる。むしろこのような呪わしいアーティファクトこそ相応しいこともあると私は思うのだが」 深紅の不気味な剣が構えられる。「問題はね、ニスタル、おまえさんに皮肉のセンスがないことさ」 そのとき、夜魔の風にあおられた鐘が悲鳴を上げた。突如として周囲で暴風が咆えたけり、金色の螺旋を抱いた炎の蔓が沸きあがった。稲妻の鞭が塔の外壁を打ち据えたが、石壁はそれに耐え抜いた。だが、木製の床は落雷の猛攻に悲鳴を上げた。巨大な鐘は前後に揺れて嘆き声を上げていた。 「無駄なことを!」と、長い髭を踊らせながらニスタルが叫んだ。「貴様のエレメントは城の防護魔法を打ち破れぬ!」 ブラックソーンは口をきかずに瞳を黄色く光らせて、空を一瞥した。上空の雲に無数の輝く粒が出現し、時間とともにその輝きを増した。燃え立つ岩石が星空から降り注いだ。ニスタルは窓に飛んで手を高く上げ、近づいてくる炎の嵐を待ち構えた。その手の中には冷たく輝く球体が形作られていた。 遠く湖を挟んだブリタニア湾の土手からブリタニア城を眺めると、それは激しく輝く雷石と時間をおいた衝撃の鼓音とによる眩惑的な舞台にも見えた。霜冷な光の円弧が空中を疾走し、激突した。風に波立つ湖で明るくきらめいた。 ブリテインの街灯たちが怯えるように瞬いた。 ニスタルが凍てつく炎のオーブを迫りくる火球に投げつけた。ブラックソーンは短い叫び声をあげるて前に踏み出し、マントを背後で躍らせながらシャドウガストの赤い刃を老魔道師に突き出した。だが剣は見えない壁にはねかえされた。金属の響きが嵐と雷の不協和音に突き刺さった。空気の中を割れ目が走った。 突然の火花と爆発がブラックソーンを吹き飛ばし、固い鉄の鐘に叩きつけた。足元は急勾配になっていて塔の長い柱心へと落ちこんでいる。ブラックソーンは鉄鐘の表面を押した反動で平らな床の上へ転がり、そのままの姿勢で呪文を紡ぎ出した。手首を軽く叩いてきらめく緑玉石の矢を発射する。老人の瞳が大きく開かれ、しわだらけの腕がすばやく振るわれた。緑玉石の矢は大きく目標をそれてジグザグに飛び、逆にブラックソーンへと向かってきた。シャドウガストが矢の軌道を一閃して弾き飛ばした。 ブラックソーンは、剣を引いて次の一撃の溜めを作り、再突撃した。ニスタルはコンドルのように手を広げ、瞳を赤く燃え上がらせながら口を大きく開いた。その口から仄かに白い光線が吐き出される。ブラックソーンはその攻撃を片手で受け止めた。明るい残り火が滝のように流れ出した。さらに次の光線をシャドウガストで防ぐ。 ニスタルの長い髪は乱れ、まるで悪魔のたてがみのようになっている。老魔道師は光線に加えてさらに両手から炎を放った。ブラックソーンは腕と剣で呪文攻撃を受け流しながら後退した。 一瞬をおいて、ニスタルが防ぎそこなった最後の雷石が塔に叩きつけられた。そして、それが激突したとき、二人の戦士の周りで世界が咆えながら揺れた。 ブラックソーンは転倒した。周囲の床中に炎と燃え殻が撒き散らされた。鐘楼の一隅が粉砕され、鐘は砕けた木材に支えられて心許なさそうに揺れていた。一方、ニスタルは着衣を煤と煙に汚しながら身を伏せていた。老人が動いた。ブラックソーンは気を張り詰めた。 魔道師は飛んだ。まるで年老いた精霊のように飛翔すると、腕を翼のように広げ、目から稲妻の爪を放った。第一撃はブラックソーンに激しくぶつかって、彼の体を押し戻した。胸で何かが焦げる音がした。第二撃はシャドウガストに防がれた。第三撃までに、ブラックソーンは足元を確保していた。赤い刃が宙に浮かんだ魔道師を切りつける。寸前、ニスタルは逆方向に飛び去り、シャドウガストは勢いよく巨大な鐘を打ち鳴らした。鐘に亀裂が走り泣き叫ぶような音が響く。痛んだ支持材から押しのけられた鐘は、地面に落ちるまでの数秒間、うめき声をあげ続けた。そして塔の土台に激突した。ブラックソーンの忌むべき刃に汚された鋼鉄の鐘は、まるで脆い灰色の卵殻のように砕け散った。 シャドウガストが再びニスタルに飛んでマントを切り裂いた。すかさずブラックソーンは赤熱する鎖を召喚した。鎖は触手のように魔道師にまとわりついて、老人を床に引きずり倒した。 不気味な沈黙が辺りを包んだ。ブラックソーンがニスタルを見下ろしている。輝く鎖に巻き取られたまま老魔道師は苦しそうに息をした。 「馬鹿な」と、混乱して周囲に目をやりつつあえいだ。「城の防護を解除したのか! ありえないことだ!」 ブラックソーンの声は傷口に塩をすりこむような響きがあった。「そう、ありえないことだ。ブリタニア城の護りを破れる者などいない」 そう言うと、ブラックソーンはにやりと笑った。「ここはブリタニアじゃないんだよ」 世界が揺らぎ、移ろいだ。彼らは銃眼を施された塔の上にいた。その塔は湖に囲まれたブリタニア城ではない城の上に建っていた。北には荒野が広がり、南にはブリテインのきらびやかな光が見える。冬の星々が頭上を壮厳に飛翔していた。「卿を住処で倒せるなんて思っていなかった」と、ブラックソーン。「だから、我が家へお連れしたのさ」 「どうやって……いったいいつ……」 「まぬけでせっかちなニスタル君、卿は数学者の態度で魔術に接した。だから力強いが柔軟性に欠ける。私自身は、魔術は芸術だと思っている。そして芸術とはつまり、感情と感性の世界なのさ」 彼は縛りつけられた魔道師の上に屈みこんで剣の柄を示した。「シャドウガストに驚かなかったか? 心を乱されなかったか? 私の意図が何かを正確に理解しようと努めたか? そう、私がこいつを連れてきたのにはまさにそのためだ。我々が転移したとき、卿は私の剣を気にすることで忙しくてそのことに気がつかなかった。あの雷石が命中したときだ」 「だったら卿は『渦巻のレンズ』に手を出せまい。貴様の負けだ」 「ブリティッシュが呪文の行使に卿を必要とする可能性に賭けたのさ」 魔道師は歯軋りした。「ロード=ブリティッシュはわしの解放を要求するだろう。わしを打ち倒すことはできても、陛下を打ち倒すことはできまい」 「そう確かなことでもないだろう」 ブラックソーンは厳しい目つきで言った。「だがそれはどうでもいい。なぜなら、卿は再統合の呪文を行使しないという言葉を私に聞かせてくれるだろうからな。そして真に徳の道に従う卿であれば、それを守ってくれるだろう」 「さような約束はせぬ!」 ブラックソーンは剣を持ち上げた。「では死んでもらう」 魔道師は歯を剥き出した。「殺せ!」 「よく考えろ、ニスタル! シャドウガストにかみ殺されれば蘇生できないんだぞ」 ブラックソーンはよろめいて咳き込んだ。胸に手を当て、血まみれの指で傷を確かめる。「くそッ、私のやっていることはあらゆる人々のためになるんだぞ! つまり、卿とブリティッシュにとってもだ」 「さような約束はせぬ」 「ニスタル、こんなことをさせないでくれ!」 シャドウガストの切っ先が魔道師の首の周りで円を描いた。「ただ、あの未来の世界へと私を投げ込んで欲しくないだけなんだ!」 突然、板が割れるような音が彼の背中を撃った。ブラックソーンは一声あげただけで息を詰まらせ、体を折ってニスタルの傍に倒れた。老魔道師を縛りあげていた輝く鎖が消滅した。 塔の遥かな端で、白いフードと波打つ白いローブに身を包んだレディ・ガブリエルが身じろぎ一つせずに立っていた。両手から、ブラックソーンを打ち倒した呪文が残した煙の渦が立ち上っていた。 痛みにうめきながら、ニスタルはよろめいて立ちあがった。「おまえが? ここに?」 だが、彼女の頬に冬の風が凍らせていく涙を見たとき、彼は言葉を失った。無言の理解に満ちた視線が交わされた。そして、魔道師は堅苦しく呪文を囁くと、倒れたブラックソーンとともに姿を消した。後には深紅のシャドウガストだけが残された。 長い時間の後、ガブリエルは身を屈めて剣を拾い上げ、吹きさらしの螺旋階段へと歩き始めた。階段は、主を失ったブラックソーン城の奥へと続いていた。 |
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